「人魚のミイラ」の中身
岡山・円珠院の一体を、CTと年代測定で読む
岡山県浅口市の寺に、「人魚干物」と書かれた箱に入った長さ30センチほどのミイラが伝わっている。2022年、大学と博物館のチームがこれをCTにかけ、毛やウロコを顕微鏡と年代測定で調べた。1年後の最終報告が示した中身と、それでも残った謎を、報告書と当時の記事から読み直す。
この記事の要点
- 円珠院のミイラには、頭の骨も背骨もなかった。中は布・紙・綿で、上半身は薄い紙を重ねてフグの皮と動物の毛を貼っていた
- 下半身はニベ科の魚の皮とヒレ。ウロコの炭素14年代測定では「1800年代後半の可能性が高い」とされ、箱の書付にある「元文年間(1736〜41年)」とは合わない
- 2022年の海外報道は「サルと魚をつないだもの」と予想したが、サルの骨格は見つからなかった。人の手で一から形を作った造形物だった
- 人魚のミイラは江戸時代から各地で作られ、見世物になり、海外にも渡った。バーナムの「フィジーの人魚」も日本製とみられている
01浅口市の寺に伝わる「人魚干物」
岡山県浅口市鴨方町に、円珠院(圓珠院)という天台宗の寺がある。約1200年の歴史を伝えるこの寺には、「人魚干物 壱箱」と書かれた紙を添えた木箱が残っている。中に入っているのは、長さ約30センチのミイラだ[6]。
頭には目のくぼみ、鼻の穴、とがった歯、髪や眉のような毛がある。指先には爪がある。胸から下は鱗に覆われ、尾びれはJの字に曲がっている[6]。両手を顔のそばに上げ、口を開けた姿で、民俗学の世界では「ムンクの叫び」に似た型と呼ばれている[7]。
箱の書付には、このミイラの来歴が書かれている。元文年間(1736〜41年)、徳川吉宗の時代に土佐(高知県)の沖で漁師の網にかかり、大阪に運ばれて売られていた。それを備後福山(広島県)の小島家の先祖が買い求めて家宝とし、明治になって小島家から小森豊治郎という人に売り渡した、という内容だ[1]。
円珠院にはその後、福山を出所とする30世の住職のころから伝わり、今の34世住職、柆田宏善(くいだ こうぜん)さんまで5代にわたって守られてきた。昔から檀家の人が見に来ていた。「人魚を食べると不老長寿になる」という言い伝えから、剥がれ落ちた鱗を口に入れて長生きを願う人もいたという[6]。
昭和50年代の前半には新聞やテレビで取り上げられ、透明なケースに入れて本堂の近くで公開していた時期もある。ブームが落ち着くと公開はやめた[6]。
再び注目されたきっかけは、一本のネガフィルムだった。1935年に日本で初めての妖怪辞典『現行全国妖怪辞典』を出した岡山県出身の博物学者、佐藤清明(1905〜98年)の遺品の中から、円珠院のミイラを写したネガが見つかったのだ[6]。これを見つけた岡山民俗学会理事の木下浩さんが寺に頼んで実物を見せてもらい、倉敷市立自然史博物館を通じて大学に調査を持ちかけた[7]。
022022年、大学と博物館のチームが調べ始める
調査は2022年2月2日に始まった。チームは倉敷芸術科学大学の3人と、木下さん、倉敷市立自然史博物館の学芸員の5人だ。化石の哺乳類が専門の加藤敬史教授が上半身を、魚類学の山野ひとみ准教授が魚の部分の形を、分子生物学の武光浩史准教授が剥がれ落ちたかけらのDNAを、木下さんが民俗学と歴史の面を担当した[4][2]。
2月2日から3日にかけて、ミイラのX線CT撮影とX線撮影を行い、併せて表面の観察、撮影と、剥離物の収集を実施いたしました。
ミイラは2月4日の午後には寺に返された[4]。大学が手元で調べたのは3日間だけで、あとは撮った画像と、自然に剥がれ落ちていた毛やウロコなどの小さなかけらを分析した。公開された報告を見るかぎり、体を切り開いて調べてはいない。
このニュースは海外にも伝わった。アメリカの科学ニュースサイト Live Science は、調査が始まった翌月、結果が出る前の段階でこう書いている。
The haunting remains are most likely a gruesome amalgam of a monkey's torso sewed onto a fish's tail, potentially embellished with hair and nails from a human.
この不気味な遺物は、おそらくサルの胴体を魚の尾に縫いつけたもので、人間の髪や爪で飾られている可能性もある。
「上はサル、下は魚」という見方は、人魚のミイラについて昔からよく言われてきた説明だ。ただ、この時点ではまだ誰も中身を見ていない。答えは、CTの画像の中にあった。
4月に出た中間報告では、抜け落ちた毛の表面に、人やほかの哺乳類と同じキューティクル(毛の表面のうろこ状の層)があること、腕や肩、首から頬にかけて、下半身とは形の違うウロコがあること、首と背びれに金属の針が刺さっていることが報告された[3]。保存状態についても、指先の欠け、カビとみられる白い汚れ、ダニの死骸や虫の脱皮殻が見つかり、湿気の少ない場所で保管する必要があると書かれている[3]。
ミイラはこの年の夏、倉敷市立自然史博物館の特別展「倉敷動物妖怪展」で一般に公開された[3]。最終報告は当初9月の予定だったが、延期された。
より高解像度のCTを撮影し、詳細な分析をするため
最終報告の会見は、2023年2月7日に大学で開かれた[5]。
03CTが写した中身:骨のない上半身
最終報告でいちばん大きかったのは、CTが写した体の内側だ。上あごと下あごのほかには、頭の骨も、背骨も、肋骨もなかった[2]。サルの体を使っていれば当然残るはずの骨格が、上半身にはまるごと存在しなかったのだ。
木や金属の心材は無く、内部は布、紙、綿などからなる。
報告書の本文はもう少し詳しい。頭もほとんどが綿でできていて、ところどころを漆喰か石膏のような物質で形を整えてある。上半身の表面は薄い紙を何枚も重ねて形を作り、その上にフグの皮と動物の毛を貼りつけてある[2]。中間報告で「下半身とは違うウロコ」とされたものは、フグの皮のとげ(星のような形のウロコ)だった[2]。

首の内部には直径1.2ミリ、長さ13ミリの金属の針があり、背びれには直径1.4ミリ、長さ31.6ミリの針が刺さっていた[2]。部品をつなぎ合わせ、形を保つために使われたと考えるのが自然だが、報告書は針の役目までは書いていない。
下半身は本物の魚だった。背びれ、腹びれ、尻びれ、尾びれの骨と、ひれを支える骨が残っていた。ひれのとげと柔らかい筋の数、ウロコの形から、チームは魚の部分をニベ科の魚と判断した[2]。ニベ科は、ニベやシログチ(イシモチ)などを含む魚のグループだ。
歯はすべて円錐形で、先が口の奥に向かって少し曲がっている。これは肉食の魚のあごで、種類までは分からなかった[1]。顔に見える部分も、魚のあごを人の口の位置にはめ込んで作られていたことになる。
04毛・爪・ウロコ・年代:顕微鏡と化学分析の結果
剥がれ落ちたかけらは、電子顕微鏡などで一つずつ調べられた。結果を報告書の要約から並べる[1]。
- 毛:哺乳類の毛。表面にキューティクルが見える。何の動物の毛かは書かれていない
- 爪:動物の角質(ケラチン)でできている
- 表面の塗料:木炭の粉と砂を、膠(にかわ)のようなものに混ぜて塗ってある
- 防腐処理:剥製作りに使う亜ヒ酸、硫酸クロム、ミョウバンなどの薬品は見つからなかった
- DNA:検出できなかった
防腐剤の分析は、皮膚のかけらに含まれる元素を調べる方法(蛍光X線分析)で行われた[2]。特別な処理をしていないのに長く形を保ってきたのは、もともと乾いた皮と紙と綿でできているからだろう。DNAが検出できなかった理由は、報告には書かれていない。
年代は、剥がれたウロコを使い、炭素14という放射性の炭素の減り方から測った。生き物の体に取り込まれた炭素14は、死んだあと一定の速さで減っていく。報告書の用語解説では、半分に減るまでの時間を約5740年としている[2]。残っている量を測れば、その生き物がいつごろ死んだかが分かる。ここで測ったのは魚が死んだ時期で、人魚が組み立てられた時期そのものではない点には注意したい。
剥離したウロコの年代は1800年代後半の可能性が高い。
これは書付の話と食い違う。書付は、人魚が網にかかったのを元文年間、つまり1730年代後半としている。ウロコの年代が正しければ、魚が生きていたのはそれより100年以上あとになる。チームは書付に出てくる人の名前も調べたが、確証は得られなかった[1]。
チームのまとめは、次の一文に集約されている。
魚体部は、ニベ科の魚類の皮で覆われ、上半身は、布、紙。綿などの詰め物と漆喰様の物質を土台として、積層した紙とフグの皮でできており、1800年台後半ごろのものと推測される
サルと魚を縫い合わせたのではなかった。魚の下半身に、紙と布と綿で「人のような上半身」を一から作り、フグの皮と獣の毛と爪で仕上げた工芸品だった。チームの加藤教授は、この報告を「一応の区切り」とし、研究はこれからも続けると書いている[1]。
05人魚を「作る」技術:見世物と、海を渡った人魚
円珠院の人魚は、一体だけの珍しいものではない。チームの民俗学の調査では、日本で確認できる人魚のミイラは12体あり、円珠院のものが13体目、岡山県内でさらに2体が見つかった。多くは寺社や博物館にあり、姿勢は「ムンクの叫び」のような型と、腹ばいの型の二つの系統に分かれるという[1]。
よく知られているのは、高野山のふもと、和歌山県橋本市の学文路苅萱堂(かむろかるかやどう)の一体だ。長さ約60センチの「ムンク型」で、県の有形民俗文化財になっている。滋賀県東近江市の願成寺、新潟県柏崎市の妙知寺、静岡県富士宮市の天照教社にも「ムンク型」があり、天照教社のものは170センチと大きい。大阪市の瑞龍寺の人魚は腕を伸ばした髪の長い姿で、香川県の金刀比羅宮のものは腹ばいで首をもたげている[7]。公開されていないものもあり、全国に何体あるのかは分かっていない[7]。
江戸時代には、人魚のミイラは見世物小屋の呼び物だった。実物や絵を見れば病気にならず長生きできるとして人気を集め、一部は最後に寺や神社に納められた[7]。報告書も、天保3年(1832年)の『名陽見聞図会』に描かれた見世物の図を記録の例に挙げている[1]。木下さんは作り手についてこう話している。
恐らく江戸時代から明治初期まで作られていたのだと思われます。見世物小屋で展示したり、一部はヨーロッパへ渡ったりと、大きな需要がありました。腕のいいミイラづくりの細工師がいたことは間違いありません

海を渡った人魚の代表が、オランダ・ライデンの博物館(現在のヴェレルトミュージアム)にある一体だ。1810〜20年代に長崎・出島のオランダ商館員が持ち帰ったもので[7]、長さは58センチ。博物館の目録によれば、木の芯のまわりに張り子と綿で形を作り、ニホンザルの皮と爪、イヌ科の動物のあご、サケの皮などを組み合わせている[11]。
同じ目録の説明は、出島の商館員フィッセルの著書(1833年)を引いて、出島で人魚が披露されたとき、毎日大勢の日本人が見物に訪れ、本物だと疑わずに畳に頭をつけて拝んだと書いている。商館長ブロムホフは、人魚を60グルデンで買ったという[11]。作られた人魚は、日本の人々にとっても信仰の対象になりえたことが分かる。

同じ「人魚のミイラ」でも、作り方は一つではなかった。ライデンの人魚は木の芯を持ち、サルの皮を使っている。円珠院の人魚には木や金属の芯がなく、サルの皮も見つかっていない。上半身を紙で作り、フグの皮で覆っている[2][11]。「人魚のミイラはサルと魚のつぎはぎ」という説明は、少なくとも全部には当てはまらない。
バーナムの「フィジーの人魚」
日本製の人魚を世界で有名にしたのは、アメリカの興行師P・T・バーナムだ。1842年、彼はニューヨークのアメリカ博物館で「フィジーの人魚(Feejee Mermaid)」を公開し、大評判をとった[7]。バーナムは自伝で、その出どころをこう書いている。
He had bought it from a sailor whose father, a sea captain, had purchased it in Calcutta, in 1822, from some Japanese sailors.
彼(ボストン博物館のモーゼス・キンボール)はこれを一人の船乗りから買った。その父親の船長が、1822年にカルカッタで日本人の船乗りから買ったものだった。
バーナムによれば、この同じ人魚は1822年にロンドンでも見世物になっていた。彼は1858年にロンドンを訪れたとき、古い新聞の広告でそれを確かめたという[10]。ニューヨークでは評判が広がるとすぐに張り合う者も現れ、ライバルの興行師は、サルとタラをつなげた「ファッジー(でたらめ)の人魚」を出して笑いを取った[10]。当時から、人魚の正体がサルと魚のつぎはぎだと見抜いていた人がいたことになる。

バーナムはのちに、この人魚が日本の職人の作だったと認めている。
certain “artists” in that country manufacture a great variety of fabulous animals, with an ingenuity and mechanical perfection well calculated to deceive.
その国(日本)の「職人」たちは、さまざまな空想の動物を作る。その工夫と技の完成度は、人をだますのに十分なものだ。
自伝によれば、バーナムはその後オランダのハーグの博物館を訪れ、日本で作られた空想の動物が並ぶ棚の中に、少なくとも2ダースの人魚を見たという[10]。
幕末に日本へ来たペリー提督も、『日本遠征記』の中で、日本人の科学知識と工夫を示す例として人魚のミイラ作りに触れている[7]。人魚作りは、海外から見ると日本の職人技の一つだった。

チームの報告書も、大英博物館やライデンの博物館にある日本製とみられる人魚を挙げ、次のようにまとめている。
江戸期以降、多くの人魚が作製され、外国や国内に存在(流通)していた。
06日本の人魚伝説:凶兆から、不老長寿の肉へ
なぜ日本で、これほど多くの人魚が作られ、拝まれたのか。背景には、千年以上続く人魚の言い伝えがある。
いちばん古い記録とされるのは『日本書紀』の推古天皇27年(619年)の記事だ。近江国(滋賀県)の蒲生川で「人に似た」生き物が見られ、摂津(大阪・兵庫)の堀江では漁師の網に「人でも魚でもない」ものがかかったと書かれている。ただし「人魚」という言葉はまだ使われていない[7]。明治の博物学者・南方熊楠は、これをサンショウウオだろうと考えた[7]。
「人魚」という言葉が辞書に初めて現れるのは、937年ごろの『和名類聚抄』だ。鎌倉時代の説話集『古今著聞集』には、伊勢の海で獲れた、顔が猿のようで歯が細かく、泣き声を上げる魚の話がある。村人はそれを食べ、「美味」だったという[7]。中世には人魚の出現は不吉なしるしとされることが多く、秋田県の洲崎遺跡からは、13世紀後半ごろのものとみられる、僧侶と人魚らしき生き物を描いた木の札も出土している[7]。

江戸時代になると、人魚は「薬」としても語られるようになる。貝原益軒の『大和本草』(1709年)は人魚の骨に血を止める働きがあると書き、図説の百科事典『和漢三才図会』は、オランダでは人魚の骨を解毒薬にしていると紹介した[7]。国学者の平田篤胤は1842年の手紙に、手に入れた「人魚の骨」を仲間と削って水に浸して飲み、互いの長生きを願ったと書いている[7]。

日本でもっとも広く伝わる人魚の話は「八百比丘尼(やおびくに)」だ。人魚の肉を食べた娘が年を取らなくなり、800年生きたという物語で、福井県の若狭を中心に28の都県へ広がり、伝承の数は166にのぼるとする研究もある[7]。小浜市に伝わる話の結びは、こうだ。
「この椿が枯れた時、私も命尽きたと思ってください」
800歳になった比丘尼は、空印寺の洞窟の前に白い椿を植え、こう言い残して洞窟の中へ消えたと伝えられている[8]。岡山県にも、人魚の肉を食べた娘が諸国をめぐる「千年比丘尼」の伝承が残る[7]。

不吉なしるしから、長寿と無病の守りへ。人魚に託される意味は、時代とともに変わってきた[7]。天然痘やはしかがはやった江戸時代には、文政2年(1819年)に肥前の浜に現れ、自分の姿を描いて見れば病にかからないと告げたという「神社姫」も、人魚の仲間とされた[7]。円珠院で鱗を口に入れて長生きを願った人たちも、この長い流れの中にいる。見世物の人魚が寺に納められ、拝まれるようになったのは、こうした信仰があったからだろう。
07何が分かり、何が分からないままか
調査で分かったことと、語られてきた説を並べた。
| 説 | 根拠 | 評価 |
|---|---|---|
| 本物の人魚の遺骸である | 上半身に頭の骨・背骨・肋骨がなく、中身は布・紙・綿だった[2] | 否定的 |
| サルの上半身と魚をつないだもの | 2022年の報道はこう予想した[9]が、サルの骨格はなかった。毛は哺乳類、爪は動物の角質で、種は分からない[1] | 否定的 |
| 人の手で作られた造形物である | CTで紙の積層、綿の詰め物、漆喰様の整形、金属の針が確認された[2] | 有力 |
| 元文年間(1736〜41年)に土佐沖で獲れた | 書付の記述のみ。人名は確証なし。ウロコの年代は1800年代後半[1] | 否定的 |
| 1800年代後半に作られた | ウロコの炭素14年代による推定。公開された報告に測定値は載っていない[2] | 確かめられず |
| 薬品で防腐処理されている | 剥製用の亜ヒ酸・硫酸クロム・ミョウバンなどは検出されなかった[2] | 否定的 |
| 江戸〜明治に各地で作られ、海外にも渡った | 国内13体以上の確認、ライデンの所蔵品、バーナムの証言[1][11][10] | 有力 |
分かったことは、はっきりしている。円珠院の人魚は、生きていた人魚の亡骸ではなく、魚の皮と紙と綿で作られた工芸品だった。おそらく19世紀の後半に、腕のいい職人が作った。だが、誰がどこで作り、どんな道をたどって備後の家に入り、浅口の寺に来たのかは分からないままだ。
報告書を読むと、次に調べられそうなことも見えてくる。毛がどの動物のものか、爪が何の角質か、フグがどの種類かは、まだ特定されていない[2]。国内に残るほかの人魚のミイラを同じ方法で調べれば、作り方の違いから、作った工房や時代の手がかりが得られるかもしれない。チームも、研究はこれからも続けるとしている[1]。
調査を受け入れる前、住職の柆田さんは、作り物だと分かっても構わないと話していた。
仏様などご神体も、木や石、鉄でできています。そこに人々の念が入り、『おかげ』に結びつくわけです。作り物かどうかは信仰には関係ないのです
住職が調査に期待したのは、ミイラの傷み具合を知り、長く残すための手がかりを得ることだった[6]。CTは「人魚の正体」を明らかにしたが、同時に、この一体を守るための記録にもなった。人魚のミイラは本物の人魚ではない。けれど、それを作った職人の技と、鱗を口にして長生きを願った人々の歴史は、確かに本物だ。
出典・参考資料
- 倉敷芸術科学大学「人魚ミイラの実態解明/圓珠院所蔵『人魚のミイラ』研究最終報告」ゲイカ最新ニュース, 2023年2月7日. https://www.kusa.ac.jp/news/2023/02/20230207mermaid.html(閲覧 2026-10-04)↩
- 圓珠院所蔵『人魚のミイラ』研究チーム(加藤敬史・武光浩史・山野ひとみ・木下浩・江田伸司)「圓珠院所蔵『人魚のミイラ』研究最終報告」2023年2月7日, 7p. https://www.kusa.ac.jp/images/ningyorepofinal.pdf(閲覧 2026-10-04)↩
- 円珠院所蔵『人魚のミイラ』研究チーム「円珠院所蔵『人魚のミイラ』研究中間報告」2022年3月29日(同年4月4日公開). https://www.kusa.ac.jp/images/20220404_InterimReport.pdf(閲覧 2026-10-04)↩
- 倉敷芸術科学大学「円珠院所蔵『人魚のミイラ』研究について」ゲイカ最新ニュース, 2022年2月9日. https://www.kusa.ac.jp/news/2022/02/20220209.html(閲覧 2026-10-04)↩
- 倉敷芸術科学大学「円珠院所蔵『人魚のミイラ』研究 最終報告延期のお知らせ」ゲイカ最新ニュース, 2022年9月22日(2023年1月30日追記). https://www.kusa.ac.jp/news/2022/09/22-koho01.html(閲覧 2026-10-04)↩
- こばん「人魚のミイラの科学的研究 守り継ぐ住職が『本物でなくてもいい』と話す理由」ほ・とせなNEWS, 2022年5月16日. https://www.hotosena.com/article/14622213/(閲覧 2026-10-04)↩
- 板倉君枝「日本の人魚伝説と江戸時代の『ミイラ』ブーム」nippon.com, 2022年4月26日. https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02101/(閲覧 2026-10-04)↩
- 一般社団法人若狭おばま観光協会「不老長寿の人魚伝説をめぐる旅!小浜のソウルフード『醤油干し』も紹介」おばまナビ, 2025年9月30日更新. https://wakasa-obama.jp/obamanavi/obama-mermaid-trip/(閲覧 2026-10-04)↩
- Harry Baker「Haunting 'mermaid' mummy in Japan is probably a gruesome monkey-fish mix」Live Science, 2022年3月8日. https://www.livescience.com/mummified-mermaid-in-japan(閲覧 2026-10-04)↩
- P. T. Barnum『Struggles and Triumphs: or, Forty Years' Recollections of P. T. Barnum』Project Gutenberg 電子版 #50115. https://www.gutenberg.org/ebooks/50115(閲覧 2026-10-04)↩
- 「Collectie Wereldmuseum, RV-360-10410, 'Japanse zeemeermin', 1800-1830」Wikimedia Commons(所蔵館ヴェレルトミュージアム〔旧ライデン国立民族学博物館〕提供の画像と目録説明). https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Collectie_Wereldmuseum,_RV-360-10410,_%27Japanse_zeemeermin%27,_1800-1830.jpg(閲覧 2026-10-04)↩
この記事は、公開されている資料をもとに編集部が書いています。引用した文章と画像は、出典と引用元へのリンクを添えています。英語の資料の訳は当サイトによるものです。誤りに気づいた方は、目撃情報フォームからお知らせください。