ジェヴォーダンの獣
3年間フランスを震わせた「怪物」を記録から読み直す
18世紀なかば、南フランスの山あいで、羊や牛の番をする子どもや女性が次々に獣に襲われた。新聞は「狼ではない怪物」と書き立て、国王は自分の狩人を送り込んだ。大きな狼が2頭撃たれて、襲撃はようやく止まる。あれは本当に狼だったのか。当時の記録と、その後の研究を順に読む。

この記事の要点
- 最初の公式の犠牲者は1764年6月30日、14歳のジャンヌ・ブーレ。死者の数は資料によって約60〜100人超と幅がある
- 話を全国に広めたのは新聞だった。アヴィニョンの新聞は13か月で98本の記事を載せ、各地で空想まじりの版画が刷られた
- 1765年9月に王の狩人アントワーヌが大きな狼を撃ったが、襲撃は2か月後に再開。1767年6月19日、地元の猟師ジャン・シャステルの一発で終わった
- シャステルの獣を調べた報告書は「狼に見えるが、並外れた狼」と書く。歴史家の多くは、1頭の怪物ではなく複数の狼だったとみている
011764年6月、牛飼いの娘と14歳の羊飼い
ジェヴォーダンは、南フランスの中央山地にあった古い地方の名前だ。今のロゼール県と、オート=ロワール県の一部にあたる。高原と深い森が続き、村は小さく、人々は貧しかった[4]。
暮らしは厳しかった。主な食べ物はパンで、肉といえば塩漬けの豚の脂くらい。収穫の前には、毎年のように何百人もが栄養不足や飢えで亡くなった。1765年に討伐隊に加わったノルマンディーの兵士は、雪とあられと雷雨の続くこの土地を「ひどい国で、食べ物もひどい」と手紙に書いている[6]。子どもや女性が一人で家畜を連れて森に入るのは、ふつうのことだった[4]。
最初の出来事は1764年の初夏に起きた。ランゴーニュの町に近いメルコワールの森で、牛の番をしていた若い女性が、獣に襲われた。彼女はそれを「狼のようで、狼ではない」ものだったと言った。群れの牛が角を向けて獣を追い払い、女性は助かった[5]。
6月30日、今度は助からなかった。ランゴーニュ近くのレ・ジュバック村で、14歳のジャンヌ・ブーレが殺された。これが「獣」の最初の公式の犠牲者とされる[1]。翌7月1日に書かれた教区の埋葬記録が残っている[2]。
a été anterrée Jeane Boulet sans sacremens, ayant été tuée par la bette féroce
(1764年7月1日)ジャンヌ・ブーレを、秘跡なしに埋葬した。凶暴な獣に殺されたためである。

記録が「凶暴な獣」という言葉を、説明なしに使っている点に注意したい。書いた司祭にとって、すでに通じる言い方だったことになる。フランス語版ウィキペディアは、ブーレは最初の犠牲者ではなく「最初に記録された」犠牲者にすぎない可能性を指摘している[2]。
このあと3年間で、獣のしわざとされた被害がどれだけあったのか。数字は資料によってかなり違う。1987年の研究は、攻撃210件、死者113人、負傷者49人と数えた[1]。スミソニアン誌やナショナル・ジオグラフィックは「約100人」とする[3][4]。一方で「300人近く」と書く紹介もある[7]。被害は、ほぼ東西90km・南北80kmの範囲に散らばっていた[1]。
02新聞と版画が「怪物」を作った
この時期、狼に人が襲われること自体は、フランスの田舎では珍しくなかった[6]。それでもジェヴォーダンの事件だけが国じゅうの話題になったのは、新聞のおかげだった。
1763年に七年戦争が終わり、新聞は大きな記事の種を失っていた。南フランスの新聞「クーリエ・ダヴィニョン」の編集者フランソワ・モレナスは、山奥の獣の話に飛びついた[4]。歴史家ジェイ・M・スミスの本を紹介した書評は、その熱の入れようをこう書いている[6]。
it published 98 articles on the scourge in 13 months
(クーリエ・ダヴィニョンは)この災厄について、13か月で98本の記事を載せた。
記事の中の獣は、どんどん大きく、賢くなった。馬より速く走り、剣闘士のように賢く、悪魔の目をしている。ギリシャ神話のネメアの獅子にまでたとえられた[4]。当時、政治の記事は国王の検閲を受けていた。新聞は読者をつなぎとめるために、村の小さな事件を物語仕立てで伝える「三面記事」に力を入れていた[3]。獣は、その格好の題材になった。書評が紹介する記事の一つでは、獣が少女の首を一瞬で落とし、体は立ったまま残った、と語られている[6]。現地を見ていない書き手が、生存者の話をどこまで正確に伝えたのかは、わからない。パリの新聞が後を追い、話は国外にも広がった。のちに「最初の国際ニュースの一つ」と呼ばれるほどだった[7]。
文字だけではない。パリやドイツで、獣の版画が次々に刷られた。1764年ごろの1枚には、こう書かれている[7]。

This Beast is the size of a young Bull, it likes to attack Women and Children, it drinks their Blood, cuts off their Heads, and carries them off.
この獣は若い雄牛ほどの大きさで、女と子どもを好んで襲う。その血を飲み、首を切り落として持ち去る。
同じ版画には、獣を仕留めた者に2,700リーヴルの懸賞が約束されている[7]。ドイツで1764年9月に出た版画では、獣は狼というより、四つ足のカンガルーのような姿で描かれた[7]。描いた人の多くは、実物を見ていない。

教会も動いた。1764年12月31日、メンドの司教ガブリエル=フロラン・ド・ショワズル=ボープレは、祈りと悔い改めを呼びかける教書を出した。獣は、人々の罪を罰するために神が送った「災い」だという内容で、教区のすべての司祭が信者に読み聞かせた[1]。

03王の狩人たち:デュアメルからアントワーヌまで
最初に討伐を指揮したのは、竜騎兵の大尉ジャン=バティスト・デュアメルだった。彼は兵士を軍隊式に並べ、毒入りの餌を置き、兵に農婦の服を着せて囮にした[3]。1765年2月には、およそ2万人が参加した4日間の山狩りが行われたが、獣は見つからなかった[6]。
デュアメルのやり方は、地元の反発も招いた。食い荒らされた子どもの遺体を埋めずに残させ、獣をおびき寄せる囮にしたこともあったという[6]。面目を保てなくなったデュアメルは、やがて獣には人並み外れた、超自然の力があるとほのめかすようになった[6]。追う側の失敗が、獣をさらに大きく見せていった。
目撃談から、獣の姿についての意見も出た。地元の行政官エティエンヌ・ラフォンは、初期の報告にこう書いている[3]。
It has a snout somewhat like a calf’s and very long hair, which would seem to indicate a hyena.
子牛に似た鼻づらと、とても長い毛がある。ハイエナではないかと思わせる。
デュアメルはさらに踏み込んだ。背中の黒い筋を根拠に、狼ではなく大型のネコ科の血が入っていると考えた[4]。
This animal is a monster whose father is a lion; it remains open what the mother is.
この動物は、父親がライオンの怪物だ。母親が何かは、まだわからない。

そのあいだにも、村人の抵抗は続いた。1765年1月12日、10歳前後のジャック・ポルトフェと7人の子どもたちが、固まって棒で戦い、獣を追い払った。国王ルイ15世はポルトフェに300リーヴル、仲間に350リーヴルを与え、ポルトフェには国費で教育を受けさせた[1]。3月には、母親ジャンヌ・ジューヴが子どもを守ろうと獣に立ち向かった。助け出した6歳の子は、のちに傷がもとで亡くなった[4]。

デュアメルに代わって、ノルマンディーの名高い狼狩り、ダンヌヴァル父子が1765年2月に着いた。しかし4か月たっても成果は出ず[1]、地元の有力者との仲も悪くなった。ダンヌヴァルは、農民が持ってきた狼の腹から布と骨が出たとき、懸賞金ほしさに農民が詰め込んだのではないかと疑ったという[6]。
1765年6月、国王はついに自分の火縄銃持ちで狩猟の副長官、フランソワ・アントワーヌを送り込んだ[1]。8月11日には、司祭の家の使用人マリー=ジャンヌ・ヴァレが、槍で獣の胸を突いて追い払った。アントワーヌは彼女を「ジェヴォーダンの乙女」と呼び、ジャンヌ・ダルクにたとえた[1]。
9月20日か21日、アントワーヌの一行はシャズ修道院の近くの森で、大きな灰色の狼を撃ち倒した。肩の高さ80cm、体長1.7m、重さ60kgと伝えられる[1]。アントワーヌは報告書にこう書いた[8]。
We never saw a big wolf that could be compared to this one. Hence, we believe this could be the fearsome beast that caused so much damage.
これに比べられるほど大きな狼は、見たことがない。よって、これが多くの被害をもたらした恐ろしい獣であると考える。

狼は剥製にされ、ヴェルサイユに運ばれた。木の型に皮をかぶせたもので、王妃の控えの間に飾られ、何百人もが見物した。見た人の多くは「狼としては確かに大きい」という感想だったという[6]。アントワーヌは10月19日にも雌の狼と子を撃ち、9,000リーヴルを超える褒美と名誉を受けた[1]。
このころ、フランスは外国から笑われてもいた。イギリスの新聞ロンドン・クロニクルは、獣が家をまるごと平らげる、といった皮肉な記事を載せ、フランス外務省がそれを訳して分析していたほどだった[6]。七年戦争に負けたばかりの国にとって、獣の退治は面目を取り戻す機会でもあった[3]。書評によれば、スミスは、アントワーヌが怪物の誇張された話に乗ることで、人々の想像が作った「獣」を救い出したのだと見ている[6]。宮廷はこれで話を閉じ、以後は大きな狼はどれも「狼」として扱う方針に切り替えた[6]。

04終わらなかった襲撃と、ジャン・シャステルの一発
11月は何も起きなかった。人々は、アントワーヌが本当に獣を仕留めたのだと思い始めた。ところが1765年12月2日、ソーグとロルシエールの近くで、2人の少年がまた襲われた。少年たちは撃退したが、まもなく死者が出た。今度の獣は牛を怖がらなかったと伝えられる[1]。
宮廷はこれを取り合わなかった。国王にとって、獣はもうアントワーヌが倒したものだったからだ。新聞も、ジェヴォーダンの襲撃をほとんど報じなくなった[1]。それから1年半のあいだに、30〜35人が亡くなったとされる[3]。地元の人々は、自分たちで何とかするしかなかった。1767年の春に襲撃がまた増えると、人々は近くの聖母の礼拝堂への巡礼にすがった[1]。1766年からは、毒を仕込んだ犬の死骸を獣の通り道に置く作戦がとられた[1][6]。
1767年6月18日、19歳のジャンヌ・バスティードが殺された。これが記録に残る最後の犠牲者になる[1]。翌19日、地元の貴族ダプシェ侯爵が大きな山狩りを組んだ。モン・ムーシェの斜面で、地元の猟師ジャン・シャステルが1頭の獣を撃ち倒した。それ以降、襲撃は止まった[1][4]。
シャステルの一発には、多くの伝説がついている。祈りを唱えてから撃った、聖母マリアのメダルを溶かして作った銀の弾丸を使った、などだ。しかし、祈りの話は1889年にプルシェ神父が書き留めた口伝えで、当時の記録には出てこない。銀の弾丸は、20世紀の作家アンリ・プーラの創作とされる[1]。
シャステルが受け取った報奨は、教区から72リーヴルだった[1]。アントワーヌが得た9,000リーヴル超と比べると、ずいぶん少ない。
05マラン報告書:死骸は何を語ったか
獣の正体を考えるうえで、いちばん直接の資料がある。シャステルが獣を撃った翌日、1767年6月20日に、ダプシェ侯爵の城で死骸を調べた記録だ。王の公証人ロシュ・エティエンヌ・マランが書き取ったので「マラン報告書」と呼ばれる。原本はフランス国立文書館にあり、1952年に歴史家エリーズ・スガンが見つけた[2]。

報告書は、体の各部の長さを細かく測り、歯の数、傷あと、胃の中身まで書いている。獣を見て「あのとき襲ってきたものだ」と証言した人々の話も入っている[2]。全体の印象は、次の一文にまとめられている[2]。
cet animal qui nous a paru être un loup, mais extraordinaire et bien différent, par sa figure et ses proportions, des loups que l'on voit dans ce pays
この動物は狼に見えた。しかし並外れていて、姿かたちも体のつりあいも、この地方で見る狼とはまるで違う。
「狼とはまるで違う」という言葉は、怪物説の根拠としてよく引かれる。だが、報告書に並ぶ数字そのものは、別のことを語っている。懐疑論のポッドキャスト「スケプトイド」のブライアン・ダニングは、測った寸法はどれも当時のこの地方の灰色狼の範囲に収まり、とくに大きな狼でもないと指摘した[8]。「並外れた」という印象は、興奮した見物人の感想だった可能性がある。
調べた時点で、死骸はすでに傷んでいた。外科医が着いたときには、大勢の見物人がナイフで体を切り開いたあとだった[8]。
もう一つ、よく出回る誤りがある。「獣の胃から少女の鎖骨が出た」という話だ。ダニングは、マラン報告書ももう一つの記録も、胃の中身は子どもの大腿骨の端だと書いていると指摘する[8]。
both clearly state that the stomach contained the head of a femur from a child
(二つの記録は)どちらも、胃の中に子どもの大腿骨の骨頭があったとはっきり書いている。
獣の死骸は、侯爵の使用人がパリまで運んだ。真夏の旅で腐敗が進み、ひどい匂いだったという。1809年に集められたこの使用人の証言によれば、博物学者のビュフォンが死骸を調べ、「大きな狼にすぎない」と判断した。死骸はその後、パリの貴族の屋敷の庭に埋められたらしい[1]。骨も毛皮も残っていない。今から遺伝子を調べることはできない。
06正体説を一つずつ確かめる
獣は何だったのか。当時から今まで、さまざまな説が出ている。HISTORY の記事は、候補として、狼、鎧を着せた軍用犬、シマハイエナ、ライオン、先史時代の肉食獣、狼男、狼と犬の交雑種、そして人間を挙げている[5]。肯定側の主張を先に見てから、記録と照らし合わせる。
狼(1頭または複数)
いちばん支持が厚いのは、狼説だ。歴史家ジェイ・M・スミスは、スミソニアン誌の取材にこう答えている[3]。
The best and most likely explanation is Gévaudan had a serious wolf infestation
いちばん筋が通っていて、いちばんありそうな説明は、ジェヴォーダンが深刻な狼の害に見舞われていたということだ。
つまり、1頭の怪物ではなく、何頭もの大きな狼が、あちこちの村を襲った可能性が高いという見方だ。アントワーヌもシャステルも狼を撃ち、どちらの死骸も狼とされた。フランスでは16世紀末から19世紀はじめに、狼の襲撃で9,000人もが死んだという推計もある[3]。人食いの狼が地方を荒らした事件は、ジェヴォーダンの前にも後にも、フランス各地で記録されている[2]。ジェヴォーダンの騒ぎの最中の1765年春にも、パリの北東ソワソンの近くで、1頭の狼が2日のあいだに少なくとも4人を殺し、ピッチフォークを持った男に仕留められている[1]。2021年には古生物学者フランソワ=ルイ・ペリシエが、毛色や体つきから、イタリアオオカミが最も近いという説を出した[1]。
では、なぜ目撃者は「狼ではない」と言ったのか。この土地の人々は狼をよく知っていた。だからこそ、狼と違うという証言は重く見える[8]。ただ、証言の中身はばらばらだった。赤くて鱗がある、長い毛とたてがみと黒い縞がある、頭が細長い、頭がとても大きい。そうした食い違う描写に対して、当時の版画の多くは、結局のところ犬か狼のような姿で描いている[8]。大きく飢えた狼を、恐怖の中で見た人が「狼より大きなもの」と感じたとしても不思議はない。
狼と犬の交雑種
アントワーヌが撃った子の狼には「二重の狼爪」(足の内側にある小さな指が二重になったもの)があった。これは土地の牧羊犬ボースロンによく見られる特徴だ。ダニングはここから、狼と犬の交雑種が混じっていた可能性を挙げる。交雑種は成長の途中で攻撃的になることがあるという[8]。ただし、ダニング自身も、その証拠はないと書いている[8]。
なお、病気の狼という説もある。狂犬病の狼は人を襲いやすい。しかし、かまれて生き残った人が大勢いて、その人たちが狂犬病で死んだ記録がないため、当てはまりにくい[8]。
ハイエナなどの外来動物
ハイエナ説は、事件の最中からあった。先に見たように、ラフォンもデュアメルもハイエナや大型のネコ科を思わせると書き、ハイエナとして描いた版画も出回った[3][6]。18世紀には、王侯や金持ちが珍しい動物を飼っており、逃げ出すこともありえた[8]。
1990年代末には、パリの国立自然史博物館に1766年から1819年までハイエナの剥製があったという記録が話題になった。これを獣と結びつける説がある。しかしダニングは、その剥製はシマハイエナで成獣の狼より小さいこと、その後も1767年まで襲撃が続いたことを挙げ、獣と結びつける理由はないとした[8]。
ライオン
ドイツの生物学者カール=ハンス・ターケは、見世物小屋から逃げた若い雄ライオンだったと主張している。獲物の首を押さえる襲い方や、獣の行動範囲がライオンの縄張りと同じくらいだという点を挙げる[5]。たてがみについては、こう説明する[5]。
A sub-adult male does not have a fully developed mane and sometimes has a mohawk type of stripe running down its back.
若い雄はたてがみが生えそろっておらず、背中にモヒカンのような筋が走っていることがある。
ターケによれば、ライオンは最後に毒の餌を食べて死んだという[4]。ただし、この説では、シャステルの獣を調べたマラン報告書が狼と書いていることとの説明がつかない。報告書は歯の並びも記録しており、ネコ科と見間違えるのは難しい[2]。
人間の犯行
映画や小説で人気なのが、人間が獣を操っていたという説だ。シャステルの息子アントワーヌ・シャステルが獣を飼いならし、地元の伯爵と組んで人を襲わせた、という筋書きが知られる。だがフランス語版ウィキペディアによれば、この話は1936年のアベル・シュヴァレーの小説や、アンリ・プーラの作品から広まったもので、歴史家からは相手にされていない[2]。
Aucun document ne corrobore l'hypothèse d'une telle implication criminelle
そのような犯罪への関与という仮説を裏づける文書は、一つもない。
首を切り落とされた犠牲者がいたことは、人間の犯行説の根拠として挙げられる[5]。ただ、それを伝えるのは主に新聞で、その新聞は話を大きくしていた。狼男の説は、言うまでもなく科学的に否定されている[4]。
| 説 | 根拠 | 評価 |
|---|---|---|
| 複数の狼 | 撃たれた2頭はどちらも狼とされ、マラン報告書の寸法も狼の範囲。同じ型の人食い狼の事件は各地にある[8][2] | 有力 |
| 狼と犬の交雑種 | 子の狼の二重狼爪が手がかり。ただし遺骸がなく、確かめる方法がない[8] | 確かめられず |
| 狂犬病の狼 | 生存者が狂犬病で死んだ記録がない[8] | 否定的 |
| ハイエナ | 当時の印象と版画が根拠。博物館の剥製とは時期も種も合わない[8] | 否定的 |
| 若い雄ライオン | 襲い方などは説明できるが、マラン報告書の狼という記述と合わない[5][2] | 否定的 |
| 人間(シャステル父子ら)の犯行 | 20世紀の小説が元。裏づける文書がない[2] | 否定的 |
| 狼男 | 超自然の説明で、検証の対象にならない[4] | 否定的 |
07「獣」は何を残したか
記録をたどると、怪物の姿は少しずつ縮んでいく。若い雄牛ほどの大きさ、ハイエナの鼻、ライオンの父親。そうした言葉の多くは、遠くの新聞と、実物を見ていない版画家から出ていた。手元に残った2頭の死骸は、どちらも狼だった。
研究の世界でも、この事件は長く「娯楽の題材」と見られてきた。スミスは本を書く前、パリの研究者から「獣の本など出したら、歴史家として真面目に扱われなくなる」と忠告されたという[6]。それでも彼は本を書き上げ、獣を一つの時代を映す材料として扱った[6]。今のロゼール県は、獣を観光の呼び物にしている[6]。
それでも、被害そのものは本物だった。何十人もの子どもや女性が、羊や牛の番をしている最中に殺された。歴史家スミスは、この事件を「1頭の怪物の物語」としてではなく、新聞が全国ニュースを作り始めた時代と、貧しい山村の暮らしが重なった出来事として読み解いた[6]。
事件から約110年後の1878年、のちに『宝島』を書くロバート・ルイス・スティーヴンソンが、ロバを連れてこの土地を歩いた。彼は旅行記にこう書いている[9]。
For this was the land of the ever-memorable BEAST, the Napoleon Bonaparte of wolves.
ここは、忘れがたいあの「獣」の土地なのだ。狼たちのナポレオン・ボナパルトの。
スティーヴンソンも、獣を狼として書いている。それでも「ナポレオン」と呼ぶほど、獣の名は大きくなっていた。ジェヴォーダンの獣は、怪物の話を読むときに確かめるべきことを教えてくれる。その描写は誰が見て書いたのか。数字はどこから来たのか。そして、残った物証は何を示しているのか。
出典・参考資料
- Wikipedia (英語版)「Beast of Gévaudan」(年表・被害数・マラン報告書の項を参照). https://en.wikipedia.org/wiki/Beast_of_G%C3%A9vaudan(閲覧 2026-10-09)↩
- Wikipédia (フランス語版)「Bête du Gévaudan」(埋葬記録・マラン報告書の翻刻、正体説の整理を参照). https://fr.wikipedia.org/wiki/B%C3%AAte_du_G%C3%A9vaudan(閲覧 2026-10-09)↩
- Lorraine Boissoneault「When the Beast of Gévaudan Terrorized France」Smithsonian Magazine, 2017年6月26日. https://www.smithsonianmag.com/history/beast-gevaudan-terrorized-france-countryside-180963820/(閲覧 2026-10-09)↩
- Juan José Sánchez Arreseigor「Did a 'werewolf' really terrorize France in the 1700s?」National Geographic, 2021年10月21日. https://www.nationalgeographic.com/history/history-magazine/article/did-a-werewolf-really-terrorize-france-in-the-1700s(閲覧 2026-10-09)↩
- Joseph A. Williams「What Was the Beast of Gévaudan?」HISTORY, 2020年5月28日(2025年5月28日更新). https://www.history.com/articles/beast-gevaudan-france-theories(閲覧 2026-10-09)↩
- Graham Robb「And what did she see?」(Jay M. Smith『Monsters of the Gévaudan: The Making of a Beast』Harvard University Press, 2011 の書評)London Review of Books 33(10), 2011年. https://www.lrb.co.uk/the-paper/v33/n10/graham-robb/and-what-did-she-see(閲覧 2026-10-09)↩
- The Public Domain Review「The Beast of Gévaudan (1764–1767)」2019年6月19日. https://publicdomainreview.org/collection/the-beast-of-gevaudan-1764-1767/(閲覧 2026-10-09)↩
- Brian Dunning「Hunting the Beast of Gevaudan」Skeptoid Podcast #732, 2020年6月16日. https://skeptoid.com/episodes/732(閲覧 2026-10-09)↩
- Robert Louis Stevenson『Travels with a Donkey in the Cévennes』1879年(Project Gutenberg 版). https://www.gutenberg.org/cache/epub/535/pg535-images.html(閲覧 2026-10-09)↩
この記事は、公開されている資料をもとに編集部が書いています。引用した文章と画像は、出典と引用元へのリンクを添えています。英語の資料の訳は当サイトによるものです。誤りに気づいた方は、目撃情報フォームからお知らせください。