河童のミイラと「河童の手」
酒蔵・寺に残る遺物と、江戸の記録を読む
日本には「河童のミイラ」や「河童の手」と呼ばれる品が、酒蔵や寺や神社に今も残っている。そのうち、骨まで調べられたものはごくわずかだ。調べられたものは何を語ったのか。調べられていないものは、なぜそのままなのか。そして江戸時代の人々は、河童をどう記録したのか。現物と記録を一つずつ見ていく。
この記事の要点
- 伊万里の松浦一酒造の全身ミイラは1953年に梁の上の箱から見つかった。科学的な鑑定の結果は公表されておらず、蔵元は調査のための貸し出しをすべて断っている
- 茨城・満蔵寺の「河童の手」はX線写真が撮られ、爬虫類学者は「哺乳類で、サルの仲間の特徴がある」と見た。岩手・寶城寺の全身ミイラは、住職自身が「おそらく猫」と話している
- 似た「作り物」である人魚のミイラは、2022〜23年の大学の調査で、紙・布・綿・フグの皮・魚の皮を組み合わせた細工物だと分かった
- 江戸の学者・古賀侗庵は『水虎考略』で各地の河童の記録と図を集め、続編の序文では「河童の切られた腕」を自分の目で見たと書いている
01酒蔵の梁の上から出てきた「河伯」
佐賀県伊万里市の山代町楠久に、松浦一酒造という酒蔵がある。創業は正徳6年(1716年)。300年以上、酒を造り続けてきた老舗だ[1]。この蔵のいちばん奥に、しめ縄を張った祭壇があり、ガラスのケースが置かれている。中にいるのが「河童のミイラ」だ[1]。
見つかった経緯ははっきりしている。母屋の瓦をふき替えていたとき、大工の棟梁が梁の上に置かれていた黒い箱を見つけた。工事が終わってから開けてみると、何かの生き物のなきがらが入っていた。箱には墨で「河伯(かはく)」と書かれていた[1]。河伯は、もとは中国の川の神の名で、日本では河童の別名としても使われる。
社長の田尻泰浩さんは、和樂webの取材にこう話している。
見つかったのは昭和28(1953)年。それははっきりしてるんですけど、いつ頃からうちにあって、どっから持ってきたかっていうのは分かってないんです
ミイラは体長およそ70センチ。こちらを向いてうずくまった姿勢で、背中は甲羅のようにも見えるが、よく見ると背骨が16個突き出ているという。頭の上には「皿」に見えるくぼみがある。手の指は5本で、形は人の手に近い。足の指は3本で、とても長い。手にも足にも、指の付け根に水かきのような跡がある[1]。
田尻家には、見つかる前から「この家には何か珍しいものがある」という言い伝えだけがあった。毎年12月1日には、酒の仕込みに合わせて家だけで「水神様の祭り」を開いてきた[1]。見つかってからは、その日だけ箱から出して祀るようになり、平成になってから常に見られる形で公開された。今は酒蔵の見学で、ほかの「カッパコレクション」と一緒に見ることができる[1][2]。
どこから来たのかについて、田尻家では一つの推測をしている。田尻氏は戦国時代、筑後国の田尻村(今の福岡県みやま市高田町のあたり)の豪族で、のちに鍋島氏から今の土地を与えられて移ってきた。もとの土地の近くを流れる飯江川(はえがわ)には河童の伝説がある。移ってくるときに持ってきたのではないか、というのだ[1]。これは家の推測で、裏づける文書は示されていない。
調べられたことはあるのか
このミイラが何の動物でできているのかは、公表された科学的な調査では確かめられていない。理由ははっきりしている。蔵元が調べることを認めていないからだ。
調べたいから貸してくれないかっていう方もいらっしゃるんですけど。もちろん、すべてお断りしています。
蔵元の説明では、手は顔の下に入れられていて、ちょうど犬や猫が伏せているような姿勢だという[1]。田尻さんは続けて、「うちの蔵としては、お酒の神さんとして大切にしていますんで」と話している[1]。ミイラは研究の標本ではなく、蔵の水神として祀られている。見つかったあとに家に男の子が生まれ、双子が2代続いたことから、今では子宝祈願に訪れる人もいるという[1]。正体を調べないこと自体が、この家にとっては祀り方の一部なのだ。
02日本各地に残る「河童の手」
全身のミイラは珍しいが、「河童の手」と呼ばれる品は各地にある。民俗資料を多く集めた湯本豪一さんは、河童についてこう書いている。
江戸時代には各地でさまざまな河童が出没した。目撃されたり、捕らえて見世物にされたり、なかには塩漬けにされたという記録もあり、現在でもミイラと称されるものが伝えられているくらいだ。
湯本さんの本を紹介した講談社の記事は、いくつかの例を挙げている。熊本県天草郡の志岐八幡宮には、悪さをした河童の手を神主が切り落としたという手があり、この手で頭をなでるとコレラが治ると信じられてきた。今も疫病よけとして、子どもの頭をなでるのに使われているという。福岡県の田主丸町には、馬の尾をつかんで川に引き込もうとして侍に切られた手が伝わる[5]。

福岡県久留米市の北野天満宮の手には、菅原道真が筑後川で命をねらわれたとき、道真を助けに来た河童が敵に切り落とされた手だという言い伝えがある[5]。久留米の観光案内も、この手を紹介している[9]。
その伝説を証明するかのように、現在でも「カッパの手」が天満宮の宝物として大事に保管されています。
東京の浅草に近い台東区松が谷には、「かっぱ寺」と呼ばれる曹源寺がある。台東区の観光案内は、名前の由来をこう説明している。
雨合羽商の喜八は私財を投じて水はけ工事を行い、これを河童が手伝って瞬く間に完成させたといわれています。

境内の河童堂には、河童の像や絵とともに「河童の手」として伝えられる品がケースに納められている。2017年に訪ねた地元の観光サイトは、これを「未知の生物の存在を証明するもの」ではなく、地域の河童信仰の一部として拝見したと書いている[8]。
宮崎県都城市の都城島津伝承館では、2014年に「河童の手足」とされる2本のミイラが初めて公開された。長さはおよそ8センチと15センチ。1818〜20年ごろ、侍が今の三股町の川岸で河童を撃ち、都城島津家に献上したものと伝えられ、2004年に館に寄贈された。報道によれば水かきは確認できず、鑑定の予定もないとされた[6]。
こうして並べてみると、多くの「河童の手」には共通点がある。切り落とされたいきさつを語る言い伝えがあり、病気よけや水難よけとして使われ、そして科学的には調べられていない。北野天満宮、曹源寺、志岐八幡宮、都城の手について、骨格やDNAを調べた結果は、この記事の調査では見つからなかった。
03X線で見た満蔵寺の手、住職が「猫」と言う寶城寺のミイラ
その中で、中身に光が当たった例がある。茨城県土浦市佐野子の満蔵寺に伝わる「河童の手」だ。
言い伝えは室町時代にさかのぼる。桜川でいたずらを続けた河童を村の力自慢がつかまえ、殺そうとしたところを寺の和尚が止め、右手を引き抜くだけで許した。和尚はその手を弔い、河童はお礼に秘伝の薬を置いていった、という話だ[3]。手はふだん箱に収められ、毎年6月の第1土曜日の「佐野子かっぱ祭り」のときだけ公開される。みだりに開けると大雨になるとも言われてきた[3]。
雑誌『ムー』の記事によれば、手は手首の骨のところで切られたようになっていて、爪の先まで10センチほど。手のひらから指先まで細長く、わずかに水かきのようなものが見え、ところどころに毛が残っている[3]。2016年に青森県八戸市の「かっぱ展」に貸し出されたとき、レントゲン写真が撮られ、骨格がはっきり写った。そのとき上野動物園の園長は「ヒトの手ではない」「なんの動物かわからない」と話したという[3]。
編集部はこの写真と現物を、静岡大学の爬虫類学者、加藤英明さんに見てもらっている。
指骨の数を見ると、親指が2本、他が3本なので、爬虫類ではなく、哺乳類です。爪が平たい、平爪なのはサルの仲間の特徴ですね
加藤さんは、写真だけで言えばシロテナガザルの手に似ているが、爪が長く、親指も長いのが奇妙だとも話している。シロテナガザルは日本にいない。ただ、江戸時代にサルの手のミイラが漢方薬として持ち込まれた例があり、それが寺に伝わったのではないか、と推察している[3]。河童が「秘伝の薬」を置いていったという言い伝えと、薬としてのサルの手。二つが重なるのは興味深い。ただし、これは写真を見ての意見で、DNAの鑑定などで種が確かめられたわけではない。
屋根裏の全身ミイラは「猫」だった
もう一つは、岩手県奥州市江刺の寶城寺(ほうじょうじ)に安置された全身のミイラだ。14世紀に開かれた曹洞宗の寺で、2020年の取材の20年ほど前、本堂の屋根を茅ぶきから銅板に替える工事で、屋根裏から出てきた。由来書も箱書きもなかった[4]。それでも、いつのまにか「河童のミイラ」と呼ばれるようになった。
2018年、このミイラは遠野市立博物館の展覧会「遠野物語と河童」で展示された。そのとき、見に来た小学生が「お母さん、これ猫のミイラだよ」と言ったという[4]。耳、目、牙、四肢の爪がそろった細い体で、記事の筆者も「だれが見ても猫だ」と書いている。住職の佐々木和生さん自身も、取材にこう答えた。
おそらく、猫のミイラでしょう。どうして河童と呼ばれるようになったのか、くわしくは正直、わかりませんがね
ではなぜ、猫のミイラが寺の屋根裏に置かれたのか。作家の荒俣宏さんは、河童の別名「水虎」の「虎」が猫の仲間であることから、猫のミイラを河童に見立てたのではないかと指摘している。記事の筆者は別の見方として、雷とともに落ちてくるとされた猫に似た妖怪「雷獣」として、火よけのために祀ったものではないかと推測している。近くの花巻市の雄山寺や、新潟県長岡市の西生寺にも、猫に似た「雷獣」のミイラがあるという[4]。どちらの説も推測の段階だが、少なくとも「河童」という名前があとから付いたものらしいことは、住職の話からうかがえる。
04ミイラはどう作られたのか:人魚のミイラの科学調査から
河童の全身ミイラを、表面から内部まで調べた結果は、この記事では見つけられなかった。ただ、同じように寺や旧家に伝わる「人魚のミイラ」には、くわしい科学調査がある。寺院の圓珠院(えんじゅいん)に伝わる人魚のミイラを、倉敷芸術科学大学などのチームが2022年2月から調べたものだ[10]。
調査では、表面の観察、X線撮影、X線CT撮影を行い、はがれ落ちたかけらを光学顕微鏡と電子顕微鏡で観察し、元素の分析、DNA分析、放射性炭素年代測定まで行った[10]。X線とCTで分かったのは、中に骨組みがないことだった。
木や金属の心材は無く、内部は布、紙、綿などからなる。
腕や肩、首から頬にかけてはフグの仲間の皮が使われ、下半身はニベ科の魚の皮で覆われていた。体毛は哺乳類の毛、爪は動物の角質だった。首の奥と下半身には金属の針が入っていた。体の表面には、砂や炭の粉をのりで溶いた塗料が塗られていた。特別な防腐処理はされておらず、DNAは検出できなかった。ウロコの年代は1800年代後半の可能性が高いとされた[10]。
来歴の書き付けも残っていた。そこには、元文年間(1736〜1740年)に土佐(今の高知県)の沖で漁師の網にかかり、大坂に運ばれて売られていたものを、備後福山の家の先祖が買い求め、家宝にした、と書かれていた。ところが、書かれた人名などについて、確かな裏づけは得られなかった[10]。科学調査が示した年代は1800年代後半で、書き付けの元文年間とは100年以上ずれる。「網にかかった」「侍が切り落とした」といった由来の話が、品物そのものの年代と合わない例があることは、河童の遺物を考えるうえでも覚えておきたい。
つまり、紙と布と綿で形を作り、その上に魚や動物の部分を貼り合わせ、色を塗って仕上げた細工物だった。チームは国内に人魚のミイラが少なくとも十数体あることを確かめ、こうまとめている。
江戸期以降、多くの人魚が作製され、外国や国内に存在(流通)していた。

日本で作られた人魚は海外にも渡った。ロンドンのホーニマン博物館は、日本の人魚の標本を所蔵している。収蔵品の説明は短い。
Specimen of Ningyo mermaid, also known as Feejee mermaid or merman, from Japan, with papier-mâché body and fish tail.
人魚(「フィジーの人魚」とも呼ばれる)の標本。日本製で、体は張り子(紙)、尾は魚。
河童の全身ミイラが同じ方法で作られたとは、調べていない以上、言い切れない。ただ、少なくとも江戸時代から明治にかけて、紙や布を芯にして魚や動物の部分を組み合わせ、「見たことのない生き物」を作る技術と、それを買う人がいたことは、実物の調査で確かめられている。松浦一酒造のミイラにある「16個の背骨」や「3本の長い足指」も、本物の骨か、組み合わせた部分か、見ただけでは区別できない。それを確かめる方法は、X線やCTで中を見ることだけだ。人魚の調査でも、DNAは検出できなかった[10]。古い遺物では、DNAより先に、壊さずに中を見る方法が決め手になる。
一方、「河童の手」は事情が少し違う。満蔵寺の手のように、手の形をした本物の動物の手が使われている例がある。小さな手が一つあれば、言い伝えと箱さえあれば「河童の手」になる。作り物というより、別の動物の手に河童の物語がかぶせられたもの、と考える方が近いかもしれない。
05江戸の学者が集めた河童の記録:『水虎考略』
河童のミイラや手が祀られた背景には、江戸時代の人々が河童をどう見ていたかがある。江戸時代には、河童は単なる昔話の存在ではなく、学者がまじめに記録を集める対象でもあった。

その代表が『水虎考略』だ。編んだのは、江戸幕府の学問所である昌平坂学問所の儒学者、古賀侗庵(こが・どうあん、1788〜1847)。1820年(文政3年)にまとめられたとされる。岩瀬文庫の解説によれば、侗庵は全国で河童に出会った人から聞き取った話を、弟子の幕府の役人を通じて集め、日本と中国の文献の記事と合わせて一冊にした。そこに、江戸城の御殿医で本草学者の栗本丹州が、各地で捕らえられたり見られたりした河童の写生図を多く加えた[12]。
本の写しは今も各地に残っている。国立公文書館には内閣文庫の写本4冊があり[14]、愛知県西尾市の岩瀬文庫には1836年に書き写された本がある[12]。民俗学者の柳田國男は、この本を「天下一ノ奇書」と評した[15]。
中身は具体的だ。たとえば、享和元年(1801年)に今の茨城県の水戸の浜で網にかかったという河童の図がある。
享和元年に水戸で網にかかった河童の図では、背の高さが3尺5寸あまり(1mあまり)、胸が盛り上がり、首がずんぐりと太く短いとあります。

この図は頭に皿があり、背中に甲羅を背負った、今の私たちがよく知る河童の姿をしている。ところが同じ本には、まったく違う姿の河童も載っている。今の福岡のあたりで見つかった河童は、全身に猿のような細かい毛が生え、甲羅がない。明和のころに江戸の本庄で捕まったという河童は、身の丈60センチほどで、全身に水苔のようなものが生え、ナマズのようにぬるぬるしていたという[12]。

こうした図を一枚の刷り物にまとめたのが『水虎十弐品之圖』だ。国立国会図書館が所蔵する一枚には、坂本浩雪の「鑒定」、純沢の「縮図」とある[16]。水戸の河童のほか、毛深い河童、亀のような生き物まで並んでいる。「河童」という一つの名前の下に、甲羅型と毛むくじゃら型という、ほとんど別の生き物が入っていたことがよく分かる。

姿がばらばらなのは、記録の多くが「聞いた話」と「誰かが描いた図」を写し継いだものだからだろう。カワウソ、サル、スッポン、あるいは水死した人の姿が、地方ごとに違う「河童」として記録された可能性がある。ただ、どの記録が何の動物だったのかを今から決める方法はない。
「河童の切られた腕を見た」と書いた儒学者
『水虎考略』には続編がある。1839年に序文が書かれた『水虎考略後編』だ。岩瀬文庫に残るこの本の巻頭には、河童の腕の図が2つと、河童の図が8つ置かれている[13]。その理由を、侗庵は漢文の序文で自分で書いている。
予又嘗目撃水虎断腕嘱画工作図寘巻首
私はまた、かつて河童の切り落とされた腕をこの目で見て、絵師に頼んで図を描かせ、巻頭に置いた。
同じ序文で侗庵は、世の人は河童を珍しいものとして「いる」と言う人も「いない」と言う人もいて、年を取ったスッポンだと決めつける人までいるが、自分は前から本当にいると信じていた、と書いている[13]。そして、確かな証拠が得られないので人の半信半疑を晴らせなかったが、記録を集め、切られた腕まで図にした今は、もう疑う余地はない、という調子で続く。ところが序文の終わりでは、道徳や天地の理など究めるべきことが無数にあるのに、河童一つの記録に3巻も費やしたのは学問の順序をひっくり返すもので恥ずかしい、とも書いている[13]。信じながらも、どこか照れている学者の姿が見える。

ここに、ミイラと記録の関係がよく表れている。幕府の学問所の教授が、「河童の手」を見たことを、河童が実在する証拠として書き残したのだ。侗庵が見た腕が何の動物のものだったのかは分からない。だが、当時の第一級の学者にとっても、切られた腕という「現物」は強い説得力を持っていた。
侗庵の関心は河童だけではなかった。天狗や雷獣についての文章も書き、怪談集も編んでいる。文学研究者の木場貴俊さんは、侗庵が怪異を漢文で記録したこと自体に、儒学者としての学問の姿勢が表れていると論じている[15]。河童の記録集は、ただの好奇心の産物ではなく、珍しいものを集めて考える江戸の学問の一部だったのだ。

06説を一つずつ確かめる
河童のミイラや手について語られる説を、ここまでの資料で整理した。
| 説 | 根拠 | 評価 |
|---|---|---|
| 松浦一酒造の全身ミイラは、未知の生き物のなきがらだ | 科学的な調査の結果は公表されていない。蔵元は調査のための貸し出しをすべて断っている[1] | 確かめられず |
| 満蔵寺の「河童の手」は河童の手だ | X線写真の指の骨は哺乳類の数で、平らな爪はサルの仲間の特徴と見られた[3] | 否定的 |
| 寶城寺の全身ミイラは河童だ | 箱書きも由来書もなく、住職自身が「おそらく猫」と話している[4] | 否定的 |
| 全身ミイラは、紙や布に動物の部分を組み合わせた細工物が多い | 同じ種類の人魚のミイラは、CTなどで紙・布・綿・魚の皮の細工物と判明した[10]。ただし河童の全身ミイラ自体の調査は見つからない | 有力 |
| 「河童の手」には本物の動物の手が使われている | 満蔵寺の手には骨格が写っていた[3]。他の手は調べられていない | 確かめられず |
| 江戸の学者も河童を実在の生き物と考えていた | 古賀侗庵は序文で、前から実在を信じ、切られた腕を見たと書いている[13] | 有力 |
表で分かるとおり、「河童だ」と確かめられたものは一つもない。一方で、「何でできているか」まで確かめられたものも、ごくわずかだ。調べられた満蔵寺の手と寶城寺のミイラは、どちらも既知の哺乳類を指していた。
07なぜ調べずに祀り続けるのか
それでも、河童のミイラや手の多くは、調べられないまま大切にされている。それは「正体を隠したいから」と考えるより、それぞれの品が果たしてきた役目を見る方が分かりやすい。
松浦一酒造のミイラは、酒造りに欠かせない水の神として祀られ、今は子宝のご利益を求める人が訪れる[1]。満蔵寺の手は雨乞いに使われ、開けると大雨になると畏れられ、近年は町おこしの「かっぱ祭り」の中心になった[3]。志岐八幡宮の手は子どもの頭をなでる疫病よけだ[5]。曹源寺は水はけ工事の言い伝えから、水に縁のある商売の人に信仰されている[7]。どの品も、「河童がいた証拠」としてより、水や病気や家の行く末にかかわる願いの受け皿として、何代も受け継がれてきた。
江戸時代の人々にとっても、切られた腕やミイラは、話を本当らしくする「現物」だった。古賀侗庵のような学者でさえ、腕を見たことを実在の証拠と考えた[13]。そして同じ時代、紙と布と魚の皮で「人魚」を作る職人がいて、その作品は国内でも海外でも売られていた[10][11]。見る側の「河童はいる」という信念と、作る側・伝える側の技術や物語が、互いを支え合っていたと考えられる。
今、もし松浦一酒造のミイラをCTで撮れば、中に何が入っているかはかなりの程度まで分かるだろう。だが蔵元は、それを望んでいない[1]。正体が分かることと、祀られてきた歴史の意味は、別のものだ。この記事で言えるのは、調べられた河童の遺物はどれも既知の動物を指していたこと、そして調べられていない遺物については「分からない」としか言えない、ということだ。
出典・参考資料
- Dyson尚子「河童のミイラを訪ねて佐賀県・松浦一酒造へ。その意外すぎるご利益とは?」和樂web(小学館), 2025年. https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/268050/(閲覧 2026-10-04)↩
- 松浦一酒造株式会社 公式サイト「河伯のミイラ」. http://www.matsuuraichi.com/matsuuraichi-kahaku.html(閲覧 2026-10-04)↩
- 松雪治彦「満蔵寺の『河童の手』御開帳! レントゲン写真でわかった正体と洪水伝説」webムー, 2022年12月26日(初出2020年9月22日). https://web-mu.jp/history/8305/(閲覧 2026-10-04)↩
- 岩崎紀夫「岩手県奥州市にある『河童のミイラ』! その正体は幻の妖怪『雷獣』か!?」webムー, 2022年12月28日(初出『ムー』2020年10月号). https://web-mu.jp/history/8290/(閲覧 2026-10-04)↩
- 学術文庫&選書メチエ編集部「これは不気味…日本に残された『“河童の手”のミイラ』の数々、その伝承と由来を探ってみる」現代ビジネス, 2023年3月12日(湯本豪一『日本幻獣図説』講談社学術文庫 からの引用を含む). https://gendai.media/articles/-/107067(閲覧 2026-10-04)↩
- 増田吉孝「これきた!河童の手足が大公開。宮崎県に伝わるミイラ化した手足」Japaaanマガジン, 2014年5月28日(産経ニュースの報道を紹介). https://mag.japaaan.com/archives/15653(閲覧 2026-10-04)↩
- 台東区公式観光情報サイト「曹源寺(かっぱ寺)」. https://t-navi.city.taito.lg.jp/spot/1244(閲覧 2026-10-04)↩
- 浅草観光のオトモ「曹源寺(かっぱ寺)|浅草・かっぱ橋からの行き方と河童堂の訪問記録」2017年12月25日(2026年10月3日更新). https://asakusakanko.com/kappadera/(閲覧 2026-10-04)↩
- 久留米観光サイト ほとめきの街 久留米「北野天満宮」. https://welcome-kurume.com/spots/detail/8631a318-35fc-4e7c-9471-f6a03260c0dd(閲覧 2026-10-04)↩
- 倉敷芸術科学大学「人魚ミイラの実態解明/圓珠院所蔵『人魚のミイラ』研究最終報告」2023年2月7日. https://www.kusa.ac.jp/news/2023/02/20230207mermaid.html(閲覧 2026-10-04)↩
- Horniman Museum and Gardens「Japanese Monkey-Fish; Merman; Mermaid」収蔵品番号 NH.82.5.223. https://www.horniman.ac.uk/object/NH.82.5.223/(閲覧 2026-10-04)↩
- 西尾市岩瀬文庫「Library018 水虎考略」岩瀬文庫の世界. http://iwasebunko.com/contents/library018.html(閲覧 2026-10-04)↩
- 西尾市岩瀬文庫 古典籍書誌データベース(ADEAC)「水虎考略後編」黙釣道人(古賀侗庵)編, 天保10年(1839)自序. https://adeac.jp/iwasebunko/catalog/mp01723200(閲覧 2026-10-04)↩
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「水虎考略」内閣文庫, 請求番号 197-0119, 編者 黙釣道人(古賀侗庵). https://www.digital.archives.go.jp/file/1239665(閲覧 2026-10-04)↩
- 木場貴俊「第七回 昌平黌(しょうへいこう)の古賀侗庵を探ります」木場貴俊の新・怪異学入門, 文学通信, 2020年5月15日. https://bungaku-report.com/blog/2020/05/---1107.html(閲覧 2026-10-04)↩
- 『水虎十弐品之圖』浩雪坂本先生 鑒定・純澤先生 縮圖, 林奎文房, 江戸後期, 国立国会図書館 請求記号 特1-3158. https://dl.ndl.go.jp/pid/2543033(閲覧 2026-10-04)↩
この記事は、公開されている資料をもとに編集部が書いています。引用した文章と画像は、出典と引用元へのリンクを添えています。英語の資料の訳は当サイトによるものです。誤りに気づいた方は、目撃情報フォームからお知らせください。