うつろ舟の蛮女
1803年、常陸の浜に流れ着いた「円盤」を写本から読む
享和3年(1803年)の春、常陸国(今の茨城県)の浜に、お香の入れ物のような丸い舟が流れ着いた。中には言葉の通じない若い女性が一人。舟の中には読めない文字が書かれていた。この「うつろ舟」の話は、今では「江戸時代のUFO」として世界に知られている。いくつもの写本を並べ、何が書かれ、何が食い違い、何が分かってきたのかを読み直す。

この記事の要点
- 話の骨組みは、1803年に常陸国の浜へ円盤形の舟が漂着し、箱を抱えた異国の女性が乗っていた、というもの。曲亭馬琴らの『兎園小説』(1825年)や屋代弘賢の『弘賢随筆』で広く知られる
- 同じ事件を書いた写本は十数種見つかっている。日付(2月22日・2月26日・3月26日)も、浜の名前も、女性の姿も、写本ごとに少しずつ違う
- 2014年、田中嘉津夫・岐阜大学名誉教授が『伴家文書』に「常陸原舎り濱」という実在の地名を見つけた。今の茨城県神栖市波崎の舎利浜にあたる
- 舟の「謎の文字」は、江戸の浮世絵の「蘭字枠」やオランダ東インド会社のマークに似ているとの指摘がある。「UFO」と結び付ける見方は、1947年以降に生まれた
- 常陸には、繭の形の舟で流れ着いた姫が養蚕を伝えた「金色姫伝説」がある。うつろ舟の絵との共通点が報告されているが、つながりの全体はまだ仮説の段階だ
011803年春、常陸の浜に「香盒のような舟」
話はこう始まる。享和3年(1803年)2月22日の昼ごろ、常陸国の「はらやどり」という浜の沖に、見なれない舟が浮かんでいた。浜の人たちは小舟を出して舟を浜へ引き寄せた[1]。
舟は、お香を入れるふた付きの器「香盒(こうごう)」のような丸い形だった。長さは3間(約5.5メートル)ほど。上はガラスの障子で、中が透けて見えた。底には鉄の板が張ってあった[1]。
中には若い女性が一人いた。眉と髪が赤く、顔は桃色だった。言葉は通じない。2尺(約60センチ)四方の箱を持っていた。人が近づくと箱を抱えて手を放さなかった、と書く文書もある。舟の中には水と食べもの、敷物があった[1][4][8]。

浜の人たちは困った。年寄りの話として、記録はこう続く。国立公文書館の解説から引く。
地元の古老の話では、これは蛮国の王の娘で箱の中はおそらくは密通した男の首だろうとのことでした。
王の娘が道ならぬ恋をし、相手の男は首を切られた。娘は殺すに忍びないので、首と一緒に舟に乗せて海へ流された――。年寄りはそう推し量った。『弘賢随筆』の写本には、そう読める推測が書かれている[2]。そして浜の人たちは、女性を助けなかった。
幕府や領主へこの事を申し上げれば、長崎への輸送など諸費用がとてもかかるため、再び女を舟に乗せて沖へ引き出したとあります。
この話をいちばん有名にしたのが、『南総里見八犬伝』の作者、曲亭馬琴(滝沢馬琴)だ。文政8年(1825年)、馬琴は江戸の好事家たちと「兎園会(とえんかい)」という会を開いた。月に一度、珍しい話を持ち寄って発表し合う会だ。その記録をまとめたのが『兎園小説』で、うつろ舟の話は「うつろ舟の蛮女」という題で入っている[5]。
会の仲間だった幕臣の屋代弘賢(やしろ ひろかた)も、同じ話を自分の『弘賢随筆』に写した[6]。国立公文書館が所蔵するこの写本は、目録で著者を「滝沢興継」としている。馬琴の息子、琴嶺(きんれい)のことだ[2]。彩色の図が付いており、この記事の冒頭の絵がそれにあたる。
絵をよく見ると、文章の説明と細かく対応している。舟の上半分には格子の窓が並び、「硝子障子」「外はチャンにて塗りたり」と書き込みがある。チャンは船の防水に使う樹脂のことだ。下半分は白と黒の縦じまで、「鉄にて張りたり」とある。女性は薄青の服を着て、黄色い箱を抱えている。箱には「二尺許四方」、服のボタンには「ねり玉 青し」と添え書きがある[2]。
つまり、この絵は空想の挿絵というより、聞いた話を図解した「説明図」として描かれている。舟の大きさ、材料、女性の持ち物まで、項目ごとに書き込む形は、ほかの写本にも共通する[4][8]。この「報告書のような体裁」が、後に話を本物らしく見せる力になった。
02記録は1冊ではない:十数種の写本と食い違い
うつろ舟の話を書いた文書は、『兎園小説』と『弘賢随筆』だけではない。研究の第一人者で、岐阜大学名誉教授の田中嘉津夫さん(光情報工学)は、2023年の論文で14編の文書を挙げている[4]。上越市の公文書センターは「現在十数点確認されている」と書く[7]。2014年の皆神龍太郎さんの論文では「少なくとも八種類」だった[5]。見つかるたびに数が増えてきたのだ。
よく知られた写本には、松平定信の家臣だった駒井乗邨(のりむら)の『鶯宿雑記』(1815年ごろ)、長橋亦次郎の『梅の塵』(1844年)、異国船や漂流民の記事を集めた『漂流記集』(西尾市岩瀬文庫蔵)などがある[6]。『漂流記集』では、舟は高さ1丈1尺(約3.3メートル)、幅3間(約5.4メートル)、本体は紫檀と鉄でできていて、ガラスや水晶の窓が付いていたとされる。女性は18〜20歳くらいとある[6]。
並べると、細かいところが合わない。日付は『兎園小説』が2月22日、『伴家文書』は文書の最後に「亥の年(1803年)二月二十六日」、『新古雑記』と『異聞雑著』は3月とする[4][8]。浜の名前も「はらやどり」「原舎ヶ浜」「京舎ヶ浜」などと揺れる[4][6]。

女性の姿も違う。『兎園小説』は顔を「桃色」とするが、ほかの多くの文書は「青白い」と書く。眉と髪の色、歯の様子、頭の白いかぶり物、服の青いボタンも、書いてある文書とない文書がある[4]。田中さんはこれらを、事件のあと時間がたつほど記述が簡単になっていった跡と読んでいる[4]。
田中さんの分類で特に古いとされるのが、『伴家文書』『新古雑記』『異聞雑著』の3つだ[4]。『新古雑記』は国立国会図書館が所蔵する著者不明の写本で、2021年に雑誌で紹介された。デジタルコレクションで誰でも見られる[4][3]。

3つめの『異聞雑著』は、越後高田藩で財政の立て直しを主導した鈴木甘井(浣花井)が書き留めたものだ。2021年に上越市の公文書センターが見つけて紹介した[7]。ここには、ほかの文書にない一文が付いていた。
著者の浣花井(鈴木甘井)は記事の最後に、これはフェイクニュースだと私見を述べています。
翻刻によると、末尾には「此事偽と聞たり」とあり、そう伝えたのは国学者・平田篤胤の弟子で越後与板藩士の北村久備だった[8]。当時の知識人のあいだでも、話の真偽はすでに疑われていたことになる。
『異聞雑著』の中身は、『兎園小説』とかなり違う。3月26日の昼、「原舎ノ浜」に異国船が流れ着き、漁船を何艘も出して引き揚げた。乗っていたのは20歳くらいの美しい女性で、背の高さは5尺(約150センチ)ほど。顔は少し青白く、眉と髪は赤黒く、歯は白く細かい。舟の中には水が2斗(約36リットル)ほど入った茶碗のような器があり、その器は「石とも見え」る美しい模様だった、という[8]。「古老の推測」や「沖へ戻した」という結末は書かれていない。
2026年7月には、秋田県立図書館でも関連の記録が見つかったと報じられた。慶応3年(1867年)に写された『聞書覚及俳諧』という文書だ[13]。地元紙のコラムはこう伝えている。
専門家は他の類似記録に比べて奇談要素がない点に着目。奇談の基になった漂着事件が実際に起きていた可能性を指摘する
03「はらやどり」はどこか:常陸原舎り濱の発見
うつろ舟の漂着地は、長いあいだ謎だった。多くの文書は、場所を「小笠原越中守の知行所(領地)」の「はらやどり」浜などと書く。ところが、そんな名前の浜は江戸時代の記録に見つからなかった。そのうえ、小笠原越中守の領地は常陸国の海沿いに見当たらない[4][6]。架空の地名と考えられ、話そのものが作り話だという根拠にもなっていた[5]。
流れを変えたのが『伴家文書』だ。甲賀流の忍術を受け継ぐ武術家、川上仁一さんが持つ古文書で、田中さんが2014年に調べた[4]。
同文書では「常陸原舎り濱(ひたちはら・しゃりはま)」という実在の地名が記されていた。
「常陸原」と「舎り濱」は、伊能忠敬が享和元年(1801年)に測量して作った地図「伊能図」に載っている地名だ。地元の神栖市の広報も、こう書いている。
常陸原舎り濱は伊能忠敬の地図でも確認でき、現在の波崎地区の舎利浜にあたります。
田中さんの読みでは、「常陸・原・舎り濱」を「常陸国・はらやどり濱」と読み違えたのが「はらやどり」の正体だ。文書に並ぶ漂着地名の多くは、この読み違いで説明できるという[4]。また『伴家文書』には、ほかの文書にある「小笠原越中守」の名前がない。川上さんは、伴家が仕えた尾張藩主の参勤交代のために集めた情報ではないか、と見ている[6]。
2023年に水戸市で開かれた展覧会の案内も「近年『神栖市波崎舎利浜』である説が強まりました」と紹介した[12]。国立公文書館の展示解説も、はらやどりは舎利浜ではないかと書いている[1]。
舎利浜は、鹿島灘に面した長い砂浜の南の端、利根川の河口に近い神栖市波崎地区にある[10][4]。漂着地が架空の場所ではなく、伊能忠敬の地図に載る実在の浜だったことで、話は少なくとも「どこかで聞いた地名を使って書かれたもの」になった。田中さんは『伴家文書』『新古雑記』『異聞雑著』の3つを、元の伝説にいちばん近い「初期3文書」と呼んでいる[4]。

ただ、注意も要る。『波崎町史』によれば、舎利浜に人が住みつくのは地引網漁が盛んになった1872年(明治5年)からで、江戸時代は砂丘が広がっていたらしい[10]。浜の人たちが小舟を出して舟を引き寄せた、という話の場面と、どう合うのか。漂着地の名前が実在したことは、漂着が実際にあったことの証明にはならない。
04舟の「謎の文字」を読む
うつろ舟を有名にしたもう一つの要素が、舟の中に書かれていたという4つの記号だ。三角形に丸が乗ったような形、「王」に似た字、丸を棒でつないだ形。どの国の文字にも当てはまらず、「宇宙文字」とも呼ばれてきた[7]。

ただ、記録を書いた当人は、これを謎の文字とは考えていなかった。
舟に書かれた記号は、浦賀に来航したイギリス船にも書かれていたようで、この作者は蛮女はイギリスかオランダ、アメリカ等の王の娘ではないかと記しています。
つまり書き手は、記号を「西洋の文字」と受け取っていた。民俗学者の柳田国男は、大正15年(1926年)の「うつぼ舟の話」でこの文字を取り上げ、かえって話が作り話である証拠だと考えたという[5]。
皆神龍太郎さんは2014年の論文で、記号の出どころを探した。目を付けたのは、江戸後期の浮世絵の周りを飾る「蘭字枠(らんじわく)」だ。西洋の文字をまねて飾りにした枠で、正しい綴りではない。皆神さんは、その中に4つの記号とよく似た形があることを示した[5]。
皆神さんはさらに、記号の一つがオランダ東インド会社(VOC)のマークに似ていると指摘する。VOCのマークは、日本から輸出された伊万里焼の皿にも描かれていた。浮世絵の飾り枠に西洋文字の模様が流行したのは、1810年代と1830年代を中心とした2回で、兎園会が開かれた1825年は後の流行期にかかるという[5]。

田中さんも、インタビューでこの説に触れている。
江戸時代の浮世絵に見られる『蘭字枠』(絵の周りに描かれた文字の飾り枠)に似ているという説もあるので、単なる装飾の可能性はあります。
皆神さんは、1825年という時期にも意味を見る。前年の1824年、常陸国の大津浜(今の北茨城市)にイギリスの捕鯨船員が上陸する事件が起き、1825年には異国船打払令が出た。外国船への恐れとあこがれが入りまじった空気の中で、うつろ舟の話は語られた、という見方だ[5][6]。もっとも、形が似ていることは、出どころの決定的な証明ではない。皆神さんも、似た例が一つあるだけでは証明にならないと断っている[5]。
05金色姫と蚕の神:もう一つの「うつろ舟」
うつろ舟の話は、常陸の海辺に昔からあった別の伝説とよく似ている。養蚕(かいこを育てて絹をとる仕事)の始まりを語る「金色姫(こんじきひめ)伝説」だ。日立市の資料では、繭の形をした丸木舟が豊浦の湊に流れ着き、中から美しい姫が現れたと伝える。
伝説の筋は土地によって少しずつ違う。nippon.com の紹介では、姫は天竺(インド)から繭の形をした丸木舟に乗って常陸国に流れ着いた。面倒を見てくれた地元の夫婦に、恩返しとして養蚕の技術を授け、天に昇ったという[6]。日立市の伝えでは、姫を見つけて育てたのは権太夫という人だ[11]。
それから権太夫は姫を我が子のように育てましたが、やがて姫は亡くなり、亡骸が繭になりました。
同じ伝説は、つくば市の蚕影神社、神栖市の蚕霊神社にも伝わる。この3社は「常陸国三蚕神社」と呼ばれる[11]。神栖市日川の星福寺(蚕霊山千手院)の門の脇には、「桑の宇津魚舟(うつぼぶね)」が豊良浦に流れ着いたと記す石板がある[10]。田中さんによれば、ある文書が漂着地とする「外濱」は星福寺に近い柳川地区とみられ、舎利浜とは10キロほどしか離れていない[4]。
田中さんがこのつながりに気づいたのは、『水戸文書』と呼ばれる個人蔵の文書だった。2012年に京都で見つかったもので、描かれた女性の前帯の「二段の蝶結び」が、星福寺の仏像「蚕霊尊」と同じ形だった[4]。
鹿島灘でうつろ舟のうわさが出た時に、当時の星福寺の人たちが寺のプロモーションに利用した可能性があると、田中氏は考えている。
田中さんの論文は、さらに踏み込む。古い3文書に共通する女性の描写を、成長する蚕の姿の暗号と読む仮説だ。青白い顔は幼虫の色、赤黒い眉と髪はさなぎの色、白く細い歯は繭、白いかぶり物は生糸、という対応になる[4][10]。論文には、文政10年(1827年)に星福寺が出した金色姫のお札の文案を、馬琴が書いていたことも紹介されている[4]。
ただし、田中さん自身が「大胆な仮説」と呼んでいる[10]。金色姫との関係がはっきり見えるのは『水戸文書』だけで、ほかの文書には養蚕とのつながりが見えないとも書いている[6][4]。
王の娘が舟で流され、常陸の浜に着く。箱か何か大切なものを持っている。浜の人に引き取られるか、送り返される。うつろ舟と金色姫は、話の型がよく似ている。だからこそ、似ていることだけでは、どちらがどちらを借りたのかは決められない。茨城県の郷土史家・故佐藤次男さんは、早くからうつろ舟と金色姫の関係を指摘していた[10][4]。
「女性を乗せた舟が浜に流れ着き、浜の人が送り返す」という話は、常陸だけのものでもない。医師の橘南谿は『東遊記』の補遺に、越後の今町(今の直江津)の話を書き残した。天明5年(1785年)ごろのことだという[7]。
ウツホ舟流れ寄れり。白木の箱作りの舟なり。
(今町の浜に)うつほ舟が流れ着いた。白木の箱のように作った舟だった。
中には16、17歳くらいの娘が一人。水の瓶と菓子の箱が入れてあった。浜の人たちは後の面倒を恐れて舟を突き流し、振り返らずに逃げ帰った[9]。若い女性、水と菓子、送り返す浜の人。常陸の話と骨組みはよく似ている。違うのは、舟の形が「箱」で、円盤ではないことだ。
06「江戸時代のUFO」はいつ生まれたか
当時の人が、この舟を空から来た乗り物だと考えた形跡はない。記録はどれも、海を漂ってきた「異国の舟」として書いている。上越市の解説は、UFO説をこう位置づける。
当時の人がそれを意図したものではなく、漂着した乗物の形が現在私たちが認識しているUFOの形にそっくりだということから、最近になって生まれた見方です。
「空飛ぶ円盤」という言葉が生まれたのは、1947年6月、アメリカのケネス・アーノルドの目撃が報じられてからだ[5][6]。皆神さんは、記号を「宇宙文字」と読む考え方も、この1947年以降に生まれた新しい解釈にすぎないと書いている[5]。日本で誰が最初に、いつ、うつろ舟とUFOを結び付けたのかは、今回の調べでは確かめられなかった。
一方で、田中さんは「江戸時代のUFO」という見方を、すべて退けているわけではない。2020年のインタビューで田中さんは、舟の文字が宇宙人の文字だという証拠が見つかる可能性も「ゼロではない」と笑いながら語っている[6]。神栖市の広報によれば、2022年の夏には米国の動画配信サービスのUFO番組が舎利浜で取材した[10]。うつろ舟は今では海外でも知られる話になった。
関心は今も続いている。秋田魁新報のコラムは、2026年5月に米国防総省がUFOの資料を公開して大きな反響を呼んだ話から書き起こし、うつろ舟を「UFOや宇宙人をほうふつとさせる内容」と紹介した。類似の記録は新潟や千葉でも確認されており、10月10日からは埼玉県久喜市で、秋田の文書にも注目した企画展が始まるという[14]。
UFO説を支える一番の材料は、絵の舟の形だ。上が丸く、ふちが張り出し、窓があり、下の部分は縦じまになっている。現代の「空飛ぶ円盤」によく似ている。田中さんも、江戸時代の人がなぜこんな絵を描けたのかを「最大の謎」の一つに挙げる[10]。
ただ、記録の中身を読むと、その形は空を飛ぶためのものではなく、香盒(香の器)に似た舟として説明されている[1]。ガラスの窓や鉄の底も、当時の人が知っていた素材だ。文書ごとに舟の形や大きさがかなり違うことも、一つの「実物」を写したとは考えにくい理由になる[6][4]。
07検証のまとめ:何が分かり、何が分からないか
ここまでの資料から、主な説を整理する。
| 説 | 根拠 | 評価 |
|---|---|---|
| 宇宙人の乗り物(UFO)だった | 当時の記録はすべて「異国の舟」として書いている。UFOと結び付ける見方は1947年以降のもの[7][5] | 否定的 |
| 「謎の文字」は宇宙の文字 | 書き手自身が浦賀のイギリス船の文字と比べている。蘭字枠やVOCのマークとの類似も指摘されている[1][5] | 否定的 |
| 馬琴が作った話 | 1825年の兎園会より前に書かれたとみられる文書があり、馬琴の創作とは言えない[4] | 否定的 |
| 漂着地は神栖市波崎の舎利浜 | 『伴家文書』の「常陸原舎り濱」が伊能図の地名と合う。ただし実在の地名を書いた文書は今のところ限られる[6][10] | 有力 |
| 実際に外国船か何かが漂着した | 具体的な地名や、奇談らしさの少ない記録がある一方、幕府の公文書は見つかっていない[6][14] | 確かめられず |
| 金色姫伝説・養蚕信仰とつながっている | 『水戸文書』の女性像と星福寺の蚕霊尊が一致。古い3文書を蚕の暗号と読むのは田中氏の仮説[4] | 確かめられず |
| 当時から作り話と見る人がいた | 『異聞雑著』の末尾に「此事偽と聞たり」とある[8] | 有力 |
うつろ舟の話で確かなのは、1803年に常陸の浜で「異国の女を乗せた舟が来た」という噂が、江戸だけでなく越後や秋田まで写し継がれたことだ。その噂がどこから始まったのかは、まだ分からない。実際の漂着があったのか、金色姫の伝説が形を変えたのか、誰かが作った話なのか。
一つ言えるのは、この話が「江戸時代の人の想像力」と「当時の海の不安」の両方を写していることだ。外国船が日本の沿岸に現れはじめた時代に、浜の人々は異国の女性を助けず、費用と面倒を恐れて沖へ戻した。記録の書き手たちは、謎の文字をイギリスやオランダの文字と比べ、女性の国を推し量った[1]。そこにあるのは宇宙への空想ではなく、海の向こうへの好奇心と警戒心だ。
分かってきたのは、謎を解く手がかりが、宇宙ではなく古文書の中にあるということだ。地名ひとつ、帯の結び方ひとつで、話の出どころが少しずつ絞られてきた。秋田の新しい記録のように、まだ眠っている写本もある[14]。次の1冊が、この「円盤」の正体にまた一歩近づけるかもしれない。
出典・参考資料
- 国立公文書館「うつろ舟の「蛮女」 享和3年(1803)2月22日、常陸国への漂着」デジタル展示『漂流ものがたり』. https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hyoryu/contents/12.html(閲覧 2026-10-09)↩
- 「うつろ舟の蛮女」(『弘賢随筆』所収、目録上の著者 滝沢興継)国立公文書館所蔵, 請求番号 特095-0004-0721, 国立公文書館デジタルアーカイブ. https://www.digital.archives.go.jp/item/1271371(閲覧 2026-10-09)↩
- 『新古雑記』[1](写本、著者不詳)国立国会図書館 請求記号 854-56, 国立国会図書館デジタルコレクション(パブリックドメイン). https://dl.ndl.go.jp/pid/2566785/1/14(閲覧 2026-10-09)↩
- 田中嘉津夫「『常陸国うつろ舟奇談』に隠された養蚕金色姫の暗号」『文化科学研究』34:93–108, 中京大学先端共同研究機構文化科学研究所, 2023年. https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/records/18946(閲覧 2026-10-09)↩
- 皆神龍太郎「江戸時代文献『うつろ船の蛮女』に描かれている『宇宙文字』の正体」『文化科学研究』25:(1)–(8), 中京大学文化科学研究所, 2014年. https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/records/201(閲覧 2026-10-09)↩
- 板倉君枝「UFOと日本人(1):江戸時代に漂着した謎の美女と円盤型乗り物―『うつろ舟』伝説の謎を追って」nippon.com, 2020年6月17日. https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00879/(閲覧 2026-10-09)↩
- 上越市公文書センター「上越の史料が伝える怪異の世界」上越市ホームページ, 2021年10月22日更新. https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/koubunsho/tenji32.html(閲覧 2026-10-09)↩
- 上越市公文書センター「『異聞雑著』の記事の翻刻」(浣花井〔鈴木甘井〕著『異聞雑著』榊原家文書・高田図書館所蔵、翻刻と現代語訳)PDF. https://www.city.joetsu.niigata.jp/uploaded/attachment/206634.pdf(閲覧 2026-10-09)↩
- 上越市公文書センター「『東遊記補遺』で紹介している上越(直江津)の『空穂舟』漂着事件の記事」(橘南谿『東遊記』補遺の翻刻)PDF. https://www.city.joetsu.niigata.jp/uploaded/attachment/206633.pdf(閲覧 2026-10-09)↩
- 神栖市「舎利浜とうつろ舟特集」『広報かみす』第409号(2024年3月1日号)4–5ページ. https://www.city.kamisu.ibaraki.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/011/591/kamisu_240301_p0405m.pdf(閲覧 2026-10-09)↩
- 日立市「金色姫伝説」(蠶養神社にまつわる伝説の紹介)PDF. https://www.city.hitachi.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/735/konnjiki.pdf(閲覧 2026-10-09)↩
- 「企画展 不思議ワールド うつろ舟」常陽藝文センター, 2023年1月24日~3月19日(国立新美術館 展覧会情報検索 アートコモンズ). https://www.nact.jp/artcommons/user/detail/73036(閲覧 2026-10-09)↩
- 「『うつろ船』伝説、秋田県立図書館で記録発見 江戸後期の奇談、原本もとにした写しか」秋田魁新報電子版, 2026年7月24日(無料で読める冒頭部分のみ確認). https://www.sakigake.jp/news/article/20260723AK0038/(閲覧 2026-10-09)↩
- 「北斗星(9月9日付)」秋田魁新報電子版, 2026年9月9日. https://www.sakigake.jp/news/article/20260909AK0003/(閲覧 2026-10-09)↩
- Wikimedia Commons「File:Utsuro-bune.jpg」(ファイルの説明とライセンスの記載). https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Utsuro-bune.jpg(閲覧 2026-10-09)↩
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