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検証UMA歴史

イエティ捜索の100年
「忌まわしき雪男」はどう探されてきたか

ヒマラヤの雪男「イエティ」は、何度も本格的な捜索隊が組まれたUMAだ。新聞社が隊を出し、エベレスト初登頂のヒラリーまでが探しに行った。それぞれの隊は何を見つけ、何を持ち帰ったのか。当事者が書き残した記録を、年代順に読み直す。

文 未確認生物研究所 編集部公開 2026年10月4日約15分で読めます出典 16件

この記事の要点

  • 「忌まわしき雪男」という名前は、1921年のエベレスト偵察隊の報告を新聞が取り上げたときに生まれた。隊長本人は足跡を「大きなオオカミ」と考えていた
  • 1951年にシプトンが撮った足跡写真は、雪男ブームの火付け役になった。ただし同行者の説明は後年に変わり、仲間のヒラリーも「手を加えたかもしれない」と語っている
  • 僧院に伝わる「頭皮」と「手」は、どちらも調べられた。1960年にヒラリー隊が借り出した頭皮は、ヤギの仲間(セロー)の皮で再現できた。パンボチェの手は人間のものと判定された
  • 日本からも1959年の学術探検隊、鈴木紀夫さんの単独捜索、2003年・2008年のイエティ・プロジェクト・ジャパンと、何度も隊が出た。決定的な証拠はまだない

011921年、ラクパ・ラの足跡と「忌まわしき雪男」の誕生

イエティを英語で「アボミナブル・スノーマン(Abominable Snowman)」と呼ぶ。直訳すれば「忌まわしき雪男」だ。この呼び名は、ヒマラヤの奥地ではなく、ロンドンの新聞の紙面で生まれた。きっかけは、1921年にイギリスが送ったエベレストの偵察隊だった。

隊長はチャールズ・ハワード=ベリー。のちに有名になるジョージ・マロリーも隊員だった。目的は、まだ誰も近づいたことのないエベレストへの道を探すことだった。1921年9月22日の未明、一行は26人のポーターと一緒に、標高およそ6,800メートルの峠ラクパ・ラを目指して出発した[1]。

峠に向かう雪の斜面で、隊は動物の足跡に出会う。ウサギやキツネの足跡に混じって、人間の足のような跡が一つあった。ハワード=ベリーは翌年に出た公式の記録に、そのときの様子をこう書いている。

Our coolies at once jumped to the conclusion that this must be “The Wild Man of the Snows,” to which they gave the name of Metohkangmi, “the abominable snow man” who interested the newspapers so much.

ポーターたちはすぐに、これは「雪の野人」に違いないと決めつけ、メトーカンミと呼んだ。新聞があれほど面白がった「忌まわしき雪男」のことだ。

大事なのは、隊長本人がこの足跡をどう見ていたかだ。彼は同じページで、はっきり別の答えを出している。

These tracks, which caused so much comment, were probably caused by a large “loping” grey wolf, which in the soft snow formed double tracks rather like those of a barefooted man.

あれほど話題になった足跡は、おそらく大きなハイイロオオカミが跳ねるように走った跡だろう。やわらかい雪の上では前と後ろの足跡が重なり、はだしの人間の足跡のようになった。

1921年エベレスト偵察隊の隊員の集合写真
PD1921年のエベレスト偵察隊の隊員(前進ベースキャンプで撮影)。立っている左から2人目がハワード=ベリー、座っている左端がマロリー。撮影:A. F. R. ウォラストン。『Mount Everest: The Reconnaissance, 1921』(1922年)掲載。パブリックドメイン。 / Wikimedia Commons

新聞が付けた名前

では「忌まわしき」はどこから来たのか。アイルランドのウェストミース県がまとめた資料によれば、足跡の話が最初にロンドンの『タイムズ』に載ったのは1921年10月21日で、見出しは「毛深い野人」だった。10月31日の記事で、初めて「Abominable Snowmen」の言葉が紙面に出る[2]。

この言葉を作ったのは、カルカッタ(現在のコルカタ)にいた記者ヘンリー・ニューマンだとされる。現地の呼び名「メトー・カンミ」の「メトー」を「汚い」と訳し、さらに「忌まわしい」と言いかえたという[2]。霊長類学者のウィリアム・オスマン・ヒルは1961年の論文で、電報の途中で綴りが崩れ、それが誤訳を生んだと説明している[6]。

ハワード=ベリー本人は、騒ぎを面白がっていたようだ。40年後の1961年、地元紙のインタビューにこう話している。

The first thing I was asked about was the new race of people we were supposed to have met.

(帰り道に寄ったパリで)まず聞かれたのは、私たちが出会ったことになっている新しい人類のことだった。

話はその後もふくらんだ。1961年に出たアイヴァン・サンダーソンの本では、ハワード=ベリーが双眼鏡で雪原を動く黒い影を見た、という筋書きに変わっている。だが公式の記録には、そんな場面はない[2]。最初の「目撃」は、実際には足跡一つと、それを見たポーターの言い伝えだった。

名前の由来について 「メトー・カンミ」の綴りと意味は、資料によって食い違う。ハワード=ベリーの本は Metohkangmi と書き、ウェストミース県の資料は「人熊のような雪男」と訳す例を挙げる[2]。ヒルは、もとの電報は mehteh で、「人に似た野生の生き物」の意味だとしている[6]。誰の訳がいつ「忌まわしい」になったのか、一次資料(当時の電報や記事の原本)までは確かめられなかった。

021951年、シプトンの足跡写真

雪男が本格的に世界の話題になったのは、30年後の1951年だ。エベレストの南側の道を探したイギリスの偵察隊が、その帰りに一枚の写真を持ち帰った。

撮ったのは隊長のエリック・シプトン。1930年代のイギリスのエベレスト遠征すべてに加わった、当時もっとも尊敬された登山家の一人だった。11月9日の午後、シプトン、医師のマイケル・ウォード、シェルパのセン・テンジンの3人は、標高約6,080メートルのメンルン・ラを越え、メンルン氷河を下っていた。そこで雪の上に続く足跡を見つけた[3]。

シプトンは12月6日の『タイムズ』に寄せた文章で、足跡をこう書いている。

It showed three 'toes' and a broad 'thumb' to the side.

(よく残った足跡には)3本の「指」と、横に広がった幅の広い「親指」が見えた。

シプトンは写真を4枚撮った。2枚は雪原に続く足跡の列を遠くから写したもの。残りの2枚は一つの足跡の接写で、大きさが分かるように1枚にはピッケル、もう1枚にはウォードの靴を並べた。翌12月7日の『タイムズ』は、そのうち3枚を「忌まわしき雪男の足跡」という見出しで載せた[3]。

雪の上の大きな足跡と、横に置かれたピッケル
PD1951年11月、メンルン氷河でエリック・シプトンが撮った足跡の接写。ピッケルを並べて大きさを示している。1952年の米誌『ポピュラー・サイエンス』掲載の複製。パブリックドメイン(米国で著作権更新なし)。 / Wikimedia Commons

足跡の長さはウォードの登山靴とほぼ同じで、およそ30〜33センチ。幅は靴のほぼ2倍あった[4]。足の裏の母指球のあたりがへこみ、親指がほかの指よりずっと大きく、離れてついていた。どれも既知の動物の足には見られない特徴で、動物学者たちは色めき立った[3]。肯定派の霊長類学者ヒルは1961年、この足跡はクマにもヒョウにもラングール(サル)にも当てはまらないと評価している[6]。

後から出てきた疑問

ところが、この写真には早くから疑問が出ていた。最初に首をかしげたのは、同じ隊にいたエドモンド・ヒラリーだ。遠くから写した足跡の列は溶けて形が崩れているのに、接写の足跡だけは輪郭がくっきりして新しい。ヒラリーは何度かシプトンに問いただしたが、いつもはぐらかされたと感じていた[3]。

のちに人類学者のジョン・ネイピアが同じ点を問うと、ウォードは「足跡は2種類あった」と説明した。遠景の足跡はヤギのもので、接写だけが正体不明の生き物のものだったというのだ。ジャーナリストのピーター・ギルマンは、これが1951年当時のシプトンの記事や、数日後に同じ足跡を見た隊員の日記と食い違うことを指摘した。そして、シプトンが崩れた足跡に手を加えて「指」を作ったのではないか、という説を出した[3]。ヒラリーもギルマンにこう語っている。

He might have tidied it [the footprint] up, made it look fresh and new and photographed it.

(シプトンは)足跡を整えて、新しく見えるようにしてから撮ったのかもしれない。

ウォードは最後まで捏造を否定した。1999年の山岳会誌には、自分も医学者としてその場で足跡を見たと書いている。

This was no hoax and the events occurred exactly and precisely as described in Shipton's book on the Everest Reconnaissance and by myself in this article.

これはいたずらではない。出来事は、シプトンの偵察隊の本と、この記事に私が書いたとおりに起きた。

ただしウォードも、足跡の主を雪男とは言っていない。彼が出した答えは、足の形が変形した地元の人がはだしで歩いた跡、あるいは足跡が重なった跡というものだった。そして「1951年にメンルンで足跡を残したのが人か動物か、確かなことは分からないだろう」と結んでいる[4]。足跡を雪男の証拠として扱う人は、当事者の中にはもういなかった。

雪をかぶった岩の尖峰メンルンツェ
CC BY 2.0メンルンツェ(メルンツェ)。1951年、シプトンとウォードはこの山のふもとの氷河で足跡を見つけた。作者:www.viajar24h.com(Flickr)。CC BY 2.0。 / Wikimedia Commons

031954年、デイリー・メール紙の雪男探検隊

シプトンの写真のあと、雪男探しは新聞社やお金持ちが資金を出す「事業」になった。最初の大がかりな隊を出したのが、イギリスの大衆紙『デイリー・メール』だ。1954年、同紙は雪男を探す探検隊を組織し、エベレストのふもとのクーンブ地方へ送り込んだ[9]。動物学者のチャールズ・ストナーやジェラルド・ラッセルが加わり、記者のラルフ・イザードは翌1955年に探検記『The Abominable Snowman Adventure』を出している[6]。

隊は雪男そのものには出会わなかった。そのかわり、地元の僧院に伝わる「イエティの頭皮」に出会う。パンボチェとクムジュンの僧院には、儀式のときにかぶる、先のとがった帽子のような毛皮が大切にしまわれていた。僧たちはこれをイエティの頭の皮だと説明した[6]。

石造りのパンボチェ僧院の外観
CC BY 4.0クーンブ地方のパンボチェ僧院(2009年撮影)。この僧院には「イエティの頭皮」と「イエティの手」が伝わっていた。作者:Vyacheslav Argenberg。CC BY 4.0。 / Wikimedia Commons

隊は頭皮の毛を手に入れ、何人もの専門家に送った。だが、答えはまとまらなかった。ヒルは1961年、どの報告も「はっきりしないもの」だったと振り返っている[6]。

解剖学者のフレデリック・ウッド=ジョーンズは、写真に見える頭皮の独特な毛の流れに注目し、ウシの仲間(コブウシ)のこぶの皮を型にはめて作ったものだと考えた。毛も、ひづめのある動物のものらしく、ヤクではないとされた[6]。毛を調べたウッド=ジョーンズは、クマや霊長類の毛ではないと結論したとも伝えられる[9]。

一方で、この隊の記録には肯定派が今も挙げる話も残る。雪男の通り道で見つけたというフン(ナキウサギの毛が入っていたとされる)や、新しい足跡の報告だ。ただしヒルは、フンは持ち帰って調べられたわけではなく、現地で目で見ただけだったと指摘している[6]。

04パンボチェの手:すり替えられた指

パンボチェ僧院には、頭皮のほかにもう一つの「遺物」があった。ミイラになった大きな手だ。この手は、雪男探しに何度も隊を送ったアメリカ・テキサスの石油資産家トム・スリックの捜索で、世界に知られることになる[7][6]。

1958年、スリックの隊の探検家ピーター・バーンが僧院で手を見せてもらった。持ち帰って調べたいスリックとヒルに対し、バーンは僧たちの考えを伝えている。

the lamas at Pangboche believed that the removal of the hand would bring disaster to the temple

パンボチェのラマ僧たちは、手を持ち出せば寺に災いが起きると信じていた。

そこで行われたのが、指のすり替えだった。もっとも広く知られた話では、ヒルが用意した人間の指をバーンがネパールへ持ち込み、手の指一本と取り替えた。バーン本人は2011年、僧の了解を得て、寺への寄付と引きかえだったと書いている。話の細部は語る人によって違う[7]。

持ち出した指をイギリスへ運んだのは、ハリウッド俳優のジェームズ・ステュワートと妻のグロリアだったとされる。スリックの友人だった夫妻はインドを旅行中で、有名人なら税関で調べられにくいと考え、妻の下着のケースに隠して運んだという[7]。

開いた箱に納められた、指の曲がったミイラ化した手
PDパンボチェ僧院に伝わっていた「イエティの手」。1961年1月13日号の米誌『ライフ』に載った写真(撮影はヒラリー隊とされる)。パブリックドメイン(米国で著作権更新なし)。 / Wikimedia Commons

指を受け取ったヒルの判定は、肯定派にとって意外なものだった。1961年の論文で、彼はパンボチェ僧院のミイラ化した手は人間のものと分かった、と短く書いている[6]。

ヒルは同時に、写真で見る手のひらの骨には類人猿に似た特徴もあると付け加えている[6]。指はその後、ヒルの遺品としてロンドンの王立外科医師会のハンテリアン博物館に入り、2008年に収蔵品の整理中に再発見された。2011年にはDNAが調べられ、人間のものと発表されている[8]。一方、僧院に残った手の本体は、1991年ごろに盗まれて行方が分からない[7]。

手の鑑定についての食い違い ヒルは1961年に、手は人間のものだと書いた[6]。一方、日本の雑誌記事には「人間や霊長類の骨格とは一致しなかった」とするものもある[9]。ヒル以外の鑑定がいつ誰によって行われたのか、確かめられなかった。また、指を持ち出したピーター・バーンの国籍や、すり替えの経緯は資料ごとに書き方が違う[7][8]。

051960–61年、ヒラリーの「シルバー・ハット」探検

1953年にエベレストに初めて登ったエドモンド・ヒラリーは、1960年、自ら雪男探しの隊を率いた。資金を出したのは、シカゴの百科事典出版社(ワールドブック)だった。隊の正式な名前は「ヒマラヤ科学登山遠征隊」。隊員だったウォードの報告によれば、目的は三つあった[5]。

  • 雪男の言い伝えを徹底的に調べること
  • 高い山に長く住むと人の体がどう変わるかを調べること
  • マカルー(標高8,463メートル)に酸素ボンベなしで登ること

二つ目の目的のために、隊は標高1万9,000フィート(約5,800メートル)に銀色の小屋「シルバー・ハット」を建て、冬のあいだ住み込んで体の変化を測った。この小屋の名前が、遠征全体の呼び名になった[5]。

雪男探しは秋に、メンルンツェに近いロールワリン谷で行われた。1951年にシプトンとウォードが足跡を見た地域だ。言い伝えや足跡は数多く集まったが、雪男の証拠は見つからなかった。手に入ったのは、珍しい「青いクマ」(チベットヒグマの一種)の毛皮と、生け捕りにしたパンダ2頭だった[5]。ヒルによれば、この青いクマの毛皮は、イエティの皮だと思って買い取られたものだった[6]。

クムジュンの頭皮、世界をめぐる

そのあと隊はクーンブ地方へ移り、僧院の頭皮を見て回った。ここで隊員のジャーナリスト、デズモンド・ドイグ(カルカッタの新聞『ステーツマン』の記者)が村の長老たちを説得し、クムジュンの頭皮を期限つきで借り出すことになった[5]。

頭皮には、村の長老クンボ・チュンビ(Kumbo Chumbi)が「お目付け役」として付き添った。ヒラリー、ドイグ、チュンビの3人は頭皮を携えて世界一周の旅に出て、1960年12月、シカゴ、ロンドン、パリの専門家の前に頭皮を並べた[5][6]。

クムジュン僧院で、寄付箱の上のガラスケースに納められた「イエティの頭皮」
CC BY-SA 4.0クムジュン僧院の「イエティの頭皮」(1998年撮影)。1960年にヒラリー隊が借り出したのはこの頭皮だった。作者:Jaan Künnap。CC BY-SA 4.0。 / Wikimedia Commons

決め手になったのは、ヒラリー隊が用意した「比べるための帽子」だった。

Hillary also submitted a cap he had himself moulded from the skin of a Serow

ヒラリーは、自分たちでセローの皮を型に合わせて作った帽子もあわせて提出した。

セローは、ヒマラヤの森にすむヤギの仲間(カモシカの近縁)だ。その皮を型に押し当てて乾かすと、頭皮の不思議な毛の流れがそっくり再現できた。顕微鏡で見た毛も、同じか近い仲間の動物のものと考えられた[6]。ウォードは遠征の報告のまとめに、こう書いている。

The Yeti scalp was examined in England and found to belong to a form of goat and not to any mythical animal.

イエティの頭皮はイギリスで調べられ、伝説の動物ではなく、ヤギの一種のものだと分かった。

森の岩の上にうずくまる黒っぽい毛のヒマラヤセロー
CC BY-SA 4.0ヒマラヤセロー(インド・シッキム州)。クムジュンの頭皮は、この動物の皮で作った帽子とよく似ていた。作者:Dibyendu Ash。CC BY-SA 4.0。 / Wikimedia Commons

翌1961年1月、ヒラリーはヘリコプターでクムジュンに一日だけ戻り、約束どおり頭皮とお目付け役を村へ返した[5]。1998年に撮られた写真でも、頭皮はクムジュンの僧院に置かれている。

肯定派の反論

これで雪男の話は終わった、と考えた人は多かった。だが、肯定派のヒルは結論を急ぎすぎだと反論した。リーズ大学の繊維の専門家マーカ・バーンズの報告では、頭皮の皮と毛はセローに似ていたものの、同じとまでは言えなかった。さらに頭皮からは、セローの帽子についていたダニとは別の、正体の分からないダニが見つかったという[6]。

Nevertheless judgment of the whole Yeti issue on the basis of the debunked " scalp " and the other " evidence " produced by Hillary appears rather hasty.

それでも、否定された「頭皮」や、ヒラリーが示したその他の「証拠」だけで、イエティの問題全体を判断するのは早すぎるように思える。

ウォード自身も、報告のまとめで、足跡はまだ説明しきれていないと認めている。溶けたキツネやヤギの足跡かもしれない、と書くにとどめた[5]。頭皮は作り物と分かったが、捜索そのものの火は消えなかった。

06日本の雪男捜索:1959年から2008年まで

日本も、雪男探しに熱心な国の一つだった。早いのは1959年だ。東京大学医学部の解剖学者、小川鼎三教授を代表に「日本雪男研究グループ」が作られ、毎日新聞社の後援で6人の学術探検隊がエベレストのふもとへ向かったとされる[9]。小川教授は、クジラの脳の研究で知られた学者で、雪男への関心から捜索隊を作ったことでも知られる[10]。

1961年には、上野動物園の園長も務めた林寿郎さんが『雪男 ヒマラヤ動物記』を毎日新聞社から出している[11]。

鈴木紀夫さんの6回の捜索

日本の雪男探しでいちばん知られているのは、冒険家の鈴木紀夫さんだろう。1974年、フィリピンのルバング島で、戦後も戦い続けていた元日本兵・小野田寛郎さんに会い、帰国のきっかけを作った人だ。「パンダ、小野田さん、雪男に会うのが夢」と語っていた鈴木さんは、残る一つの雪男に情熱を注いだ[12]。

1975年7月、鈴木さんはダウラギリ山群の斜面、標高約4,200メートル付近で「5頭の類人物を望遠観察した」と主張した。その後も捜索を続けたが、1986年11月、ダウラギリIV峰のベースキャンプ付近で遭難し、翌年10月に遺体で見つかった。37歳だった[12]。探検家の角幡唯介さんは、鈴木さんが全部で6回捜索し、最後は雪崩に巻き込まれたと語っている[13]。

雲の上にそびえる白いダウラギリの山並み
CC BY 4.0ダウラギリ山群。鈴木紀夫さんも、イエティ・プロジェクト・ジャパンも、この山群で雪男を探した。作者:Vyacheslav Argenberg。CC BY 4.0。 / Wikimedia Commons

登山家たちの「目撃談」もある。角幡さんは、マッターホルン北壁を日本人で初めて登った芳野満彦さん、女性で初めてエベレストに登った田部井淳子さん、8,000メートル峰に酸素なしで登った小西浩文さんの名を、雪男を見た人として挙げている。田部井さん自身も、1981年にチベットのシシャパンマの標高6,200メートル付近で、氷河の急斜面を動く大きな黒いものを見たと話していた[13]。

イエティ・プロジェクト・ジャパン

2000年代には、登山家の高橋好輝さんが率いる「イエティ・プロジェクト・ジャパン」が捜索を重ねた。2003年の隊の記録は『2003イエティ捜索隊全記録』としてまとめられ、国立国会図書館の典拠にも団体名が登録されている[15]。2008年の3度目の捜索のあと、高橋隊長は2003年の体験をAFP通信にこう語った[14]。

200メートルくらい先にシルエットが見えた。人間のように2足歩行で、背は150センチくらいだった。

2008年の隊は7人で、ダウラギリIV峰で42日間を過ごし、前回の目撃地点の近くに自動カメラを9台しかけた。だが、何も写らなかった[14]。この隊には角幡さんも加わり、隊員が見つけた足跡の写真は世界に配信された[13]。

同じころ、まったく逆の結論を出した日本人もいた。十数年にわたってヒマラヤを歩いた青森県弘前市の登山家、根深誠さんだ。根深さんは2012年の著書『イエティ』で、雪男の正体はチベットヒグマだと結論した。ヒマラヤのほかの地方では、イエティはもともとヒグマを指す言葉だったという。根深さんは「これで伝説に終止符を打った」と話した[16]。

日本の捜索について確かめられなかったこと 1959年の「日本雪男研究グループ」の隊員や行程は、一次資料(当時の毎日新聞の記事など)を見られず、雑誌記事と百科事典の記述によった。芳野満彦さんの目撃については、角幡さんの談話のほかに、いつどこで見たのかを示す資料を見つけられなかった。2003年の目撃の詳しい場所や状況も、『2003イエティ捜索隊全記録』を見ていないため書いていない。

07100年の捜索で何が残ったか

1921年から100年あまり。数えきれない隊がヒマラヤに入ったが、骨も、死体も、毛皮も、決定的な証拠は一つも持ち帰られていない。ウォードも1999年の文章で、どの隊も骨格、死体、骨、皮、フンのどれも見つけていないと書いている[4]。主な「証拠」が今どう評価されているかを、表にまとめた。

説根拠評価
1921年の足跡は雪男のもの隊長本人が「大きなオオカミの跡だろう」と書いている[1]否定的
1951年のシプトンの足跡は未知の動物のもの接写と遠景の食い違いが指摘され、同行者の説明も後年に変わった。ヒラリーは手を加えた可能性を語った[3]否定的
1951年の足跡は捏造だった状況証拠による説。ウォードは最後まで否定し、本人の告白もない[4]確かめられず
僧院の頭皮はイエティの頭の皮セローの皮で同じ形と毛並みが再現でき、毛もひづめのある動物のものとされた[6][5]否定的
頭皮は既知の動物では説明しきれない正体不明のダニが見つかったという報告はあるが、その後の確認は見つけられなかった[6]確かめられず
パンボチェの手はイエティの手ヒルが人間と判定し、2011年には持ち出された指も人間とされた[6][8]否定的
2003年に日本の隊が二足歩行の影を見た目撃と足跡の写真はあるが、2008年の自動カメラには何も写らなかった[14]確かめられず

この100年を通して見ると、一つの形がくり返されている。最初に足跡や遺物が見つかり、新聞が大きく取り上げる。数年後に専門家が調べ、既知の動物や人間のものだと分かる。だが、その結果は最初の騒ぎほど話題にならない。

捜索の資金の問題もあった。根深さんは、入山が難しかった時代、エベレストを目指す探検隊が雪男の話を「利用」してお金を集めたと指摘している。ヒグマだと気づいていた登山家もいたが、シェルパの信仰を壊したくないと公表しなかったという[16]。一方で、ネパールの僧院や村にとって、頭皮や手は信仰と暮らしに結びついた大切な品だった。2011年には、パンボチェの僧院が指の返還を望んでいると伝えられた。手の本体が盗まれたあと、登山家の呼びかけで、映画の特殊造形会社が古い写真をもとに手の複製を無償で作っている[7]。

雪男の足跡を追った人々の記録は、未知の動物の記録としてではなく、人が何を見たいと思い、どう証拠を扱ってきたかの記録として、今も読む価値がある。最後に、1961年のウォードの言葉を引いておく。足跡の謎は残ったまま、彼はこう書いた。

The Yeti, like the Loch Ness Monster, is neither explained nor disproved

イエティはネス湖の怪獣と同じく、説明もされず、否定もされていない。

なお、2000年代以降に進んだ「イエティの毛や骨」のDNA分析については、別の記事「イエティのDNA分析」で取り上げる(ページ末の「あわせて読みたい」から読める)。

出典・参考資料

  1. C. K. Howard-Bury ほか『Mount Everest: The Reconnaissance, 1921』Edward Arnold, 1922年(Project Gutenberg 電子版 #39421). https://www.gutenberg.org/files/39421/39421-h/39421-h.htm(閲覧 2026-10-04)↩
  2. Westmeath County Council(アイルランド)展示サイト「Mount Everest: the Reconnaissance, 1921」より「Printing the Legend」. https://www.everest1921.com/printing-the-legend.html(閲覧 2026-10-04)↩
  3. Peter Gillman「The Yeti Footprints」The Alpine Journal 2001, pp.143–151(PDF). https://www.alpinejournal.org.uk/Contents/Contents_2001_files/AJ%202001%20141-151%20Gillman%20Yeti.pdf(閲覧 2026-10-04)↩
  4. Michael Ward「The Yeti Footprints: Myth and Reality」The Alpine Journal 1999, pp.81–87(PDF). https://www.alpinejournal.org.uk/Contents/Contents_1999_files/AJ%201999%2081-87%20Ward%20Footprints.pdf(閲覧 2026-10-04)↩
  5. Michael Ward「Himalayan Scientific and Mountaineering Expedition, 1960-61」The Alpine Journal 1961, pp.343–364(PDF). https://www.alpinejournal.org.uk/Contents/Contents_1961_files/AJ%201961%20343-364%20Ward%20Himalayan%20Science.pdf(閲覧 2026-10-04)↩
  6. W. C. Osman Hill「Abominable Snowmen: The Present Position」Oryx 6(2):86–98, 1961年(doi:10.1017/S0030605300001253。リンクは公開されている写しのPDF). https://cryptozoologicalreferencelibrary.wordpress.com/wp-content/uploads/2019/10/hill-1961.pdf(閲覧 2026-10-04)↩
  7. Donna Yates「Pangboche Hand」Trafficking Culture(グラスゴー大学ほかの研究プロジェクト), 2013年. https://traffickingculture.org/encyclopedia/case-studies/pangboche-hand/(閲覧 2026-10-04)↩
  8. BBC News「Yeti finger mystery solved by Edinburgh scientists」2011年12月27日. https://www.bbc.co.uk/news/uk-scotland-edinburgh-east-fife-16316397(閲覧 2026-10-04)↩
  9. 羽仁礼「ヒマラヤの雪男『イエティ』は実在する! 直立二足歩行する獣人UMAの正体とは!?」webムー(ムーペディア). https://web-mu.jp/paranormal/2986/(閲覧 2026-10-04)↩
  10. ウィキペディア日本語版「小川鼎三」. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E9%BC%8E%E4%B8%89(閲覧 2026-10-04)↩
  11. ウィキペディア日本語版「林寿郎」(著書一覧に『雪男 ヒマラヤ動物記』毎日新聞社, 1961年). https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%AF%BF%E9%83%8E(閲覧 2026-10-04)↩
  12. ウィキペディア日本語版「鈴木紀夫」. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E7%B4%80%E5%A4%AB(閲覧 2026-10-04)↩
  13. 『FLASH』編集部「インドでイエティの足跡発見…知られざる日本人の雪男遭遇史」Smart FLASH, 2019年5月2日. https://smart-flash.jp/lifemoney/68632/(閲覧 2026-10-04)↩
  14. AFPBB News「日本の探索隊、イエティの撮影に至らず」2008年10月21日. https://www.afpbb.com/articles/-/2530654(閲覧 2026-10-04)↩
  15. 国立国会図書館 Web NDL Authorities「イエティプロジェクトジャパン」(典拠の出典:『2003イエティ捜索隊全記録』). https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00980075(閲覧 2026-10-04)↩
  16. 日本経済新聞(共同通信配信)「『雪男の正体はヒグマ』青森の登山家が調査」2012年7月17日. https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG17007_X10C12A7CR0000/(閲覧 2026-10-04)↩

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